第11話 幸せに、なってやる

「今日は奢る。だから、お願いします。昼間のことは忘れてください」


 向かいの席に大樹が座った瞬間、樹里は深々と頭を下げた。忘れて欲しいのは、勿論千裕に会ってしまった時のこと、全てである。

 あの後、会社に戻って、無心に仕事をした。多分、ちゃんと出来ていたはずだ。だが我に返ったのは、「定時ですけど、大丈夫ですか」と大樹が声をかけてくれた時。部下にそんな顔をさせて、何をしている。自分に腹が立つのに、大丈夫だと笑い返せなかった。あの人のせいですよね、と大樹が続けた。ワザとではなかっただろう。純粋に心配してくれたのだと思う。その言葉にも答えられず、「付き合って」とだけ言って、彼をここまで引き連れて来た。二度と触れられたくないし、誰にも聞かれたくない。そんな醜い思いを抱えて、口止め料にしては安い居酒屋に。


「分かりました、樹里さん。今日は金曜日です。もう飲みましょう。それから……飲みましょう」

「……飲んでるだけじゃん」

「そりゃ、そうですよ。金曜日ですからね。明日は起きられなくたっていいんです」


 大樹が胸を張った。きっと、彼は察しているのだ。薄々だとしても、あれは触れてはいけないことだ、と。やたら元気に振舞って、精の出るようなメニューばかりを押し付けて来る。樹里はパシンと頬を叩くと、よし飲むか、と上を向いた。


「お腹空いてるでしょう? まずは自分の好きなの頼んで」


 やった、と言ったが早く、樹里に突き出していたメニューの向きを変える。口止め料にするならば、もう少しいい物を食べさせたら良かったな。ようやくそこまで頭が回って、嬉々としてメニューを覗き込む彼に、ほんの少し申し訳なさを感じる。


「決まりました。オムそばとタコ焼きとポテト。それから、手羽先にします。樹里さんは?」

「そうねぇ。しめさば、ホッケ、イカ刺し」

「しめさば?」

「え? ダメなの?」

「いや、何かこうガツンとする物の方が……いいんじゃないかなって」

「そう、か。そうよね。じゃあ……もつ煮、玉子焼き。それから、唐揚げ。これでどう」

「いいと思います」


 納得したように大樹は大きく頷き、タブレット端末でサッサと注文をし始める。その手元は軽やかで、彼はどこか楽しそうにも見えた。今日は、自棄食いしたっていい。樹里は自分にそう言い聞かせた。


「樹里さん、何飲みますか。ビール?」

「あ、いや。今日はハイボールが良いな」

「了解です。じゃあ僕も」


 そう応じた大樹に、樹里は驚いた。彼はあまり酒を飲まない。会社の飲み会だって、ウーロン茶やジュースを飲んでいるような子だ。あぁ慰められるのか。そう気付くと、つい力なく笑った。気を遣われるのは好きじゃない。元カレだった、と正直に言ってしまおう。それくらいのことを彼には見られている。

 仕事の話をしているうちに、ハイボールが届く。すぐに乾杯をして、一息。ゆっくりと一口目を飲み込んだ。聞かれる前に、自分から話してしまおう。そう心を決める。


「あの」

「樹里さん」

「あ、はっはい。何でしょう」


 意を決して口を開いたのに、その言葉がすぐに遮られた。大樹は何故か、身を乗り出している。心が防御態勢を取った。千裕のことは元カレという以上に話すつもりはない。


「あの、気になってたことがあって……」

「な、なんでしょうか」


 サラリと言ってしまいたいのに、彼は何故だか緊張の面持ちである。余計に身構えたが、大樹は何だかモジモジしているようにも見えた。


「樹里さんが映画を観に行ったアカリさんって……早瀬さんのことですか」

「え? えっ? 朱莉?」

「そうです。広報部の早瀬さんですか」

「そう、ですけど……何か」


 認めた樹里を見る目が、今度はキラキラと輝く。やっぱり、と呟く大樹。どういうことかと首を傾げる樹里に、大樹はハッとして顔を赤くした。


「すみません。今日のことは、本当に心配でした。あの人が原因なんだなって思ってます。でも、僕には何もできません。見ていたので、愚痴くらいなら聞けますけど……でも、言いませんよね」

「えぇと、そうですね。楽しく飲んで、忘れ去っていただければ十分です」

「それは分かりました。綺麗さっぱり忘れます。なので、僕の話聞いて貰えませんか」

「あ、はい」


 樹里の要望は叶うらしいが、大樹が嬉しそうにハイボールを傾けたのが怖かった。いつも飲まない人間の安心して飲めるペースが、全く分からないからである。このペースでいいのか、それとも速いのか。奢ってやると言った手前、加減しろとも言えない。


「僕、早瀬さんのことが好きなんです」

「あぁうんうん。そうかぁ……? 好き?」

「あ、ラブです」

「ラブ……」


 改めて何を言われるのかと思えば、恋の話だった。朱莉はあぁいう子だ。誰かが想っていたって、可笑しな話ではない。


「僕、彼女と同期なんですよ。でも、多分認識すらされてない。彼女は、高嶺の花ですし。声を掛けてみたくても、それもなかなかできません」

「なるほど……」

「そうしたら最近、樹里さんと仲が良いらしい話をチラッと耳にして。でも話してるのすら見たことがないし、って思ってたんです。そうしたら昼間、アカリって言ったから。確認したくなって」

「そうだったの。会社では確かに、あまり話さないかな。少し前からなんだけどね。二人でよく出掛けたりしてて」


 いいなぁ、と大樹がニヤニヤし始めた。恋をしているな、と微笑ましく眺める。こんな淡い色の恋なんて、触れたのはいつぶりだろう。自分のそれだって、もう随分と前のこと。周りの友人は既婚ばかりだし、何だか新鮮だった。


「もし一緒にいる時に彼女に会ったら、名乗ってもいいですか」

「うんうん、いいよ。でも、まぁその時はさぁ。私がちゃんと紹介するよ」

「本当ですか」


 また目を輝かせる青年は、嬉しそうにハイボールを流し込む。その速度にヒヤヒヤしながら微笑み返した。自分で恋をしなくたって、誰かの恋を応援することはできる。そういうことに触れられるのは、幸せなことだ。

 ふと、千裕の指輪がチラつく。ピンク色の可愛らしい気持ちを、苛立ちと悲しさが覆おうとするのだ。私だって幸せになってやる。樹里は強く思った。

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