第25話 ただいま
「さてと、ブンタ。どうしようかねぇ」
そう優しく問うてみたが、ブンタはいつもよりもシュンとしている。すぐに帰ってくるよ。大丈夫だよ。犬に伝わるかは知らないけれど、樹里はできるだけ安心できるような言葉を並べた。リビングへ戻れば、一緒にいてくれると安堵したのだろうか。おもちゃを咥えてプンプンと尻尾を振った。ロープでできた骨型のおもちゃ。引っ張り合うのか。いや、投げるのか。樹里は考え込んだ。
「よし。ブンタ、遊び方がよく分からないから、教えてくれる?」
犬にそう話し掛けて、返事が貰えるわけもない。だが、ブンタは嬉しそうな顔をする。咥えていたぬいぐるみを樹里の前に置き、ハッハッとキラキラした目で見つめて来るのだ。投げるのか? そういうことか? 半信半疑で、樹里はそれを投げた。ブンタはタッと駆けて行き、取って戻って来る。どうやら正解らしい。樹里はそれを何度も繰り返しながら、また悩む。犬を飼ったことがないのだ。一体、これはいつまでやればいいのか。加減がまるで分らなかった。
「はぁ、疲れた。ねぇ、ブンタ。着替えて来ても良い?」
ブンタが落ち着くまではと遊んでいたが、一体どれくらい経っただろう。不安げな顔は落ち着いたが、それでもいつもと違う気がしてしまう。不意に、『ブンタは、保護犬だったんです』そう言った斎藤が過る。餌だけあげてもらえれば、と彼は言っていたが、それが本当に大丈夫なのかも分からない。いつもと違う様子に、不安になったりするだろうか。樹里は暫く考え、決めた。分からないなら、今晩はここにいよう、と。樹里の部屋に、とも考えた。だけれど、この部屋みたいな立派な柵もない。それにブンタのベッドや水、おもちゃなど、想像以上に物があって、それは難しいことだと分かった。部屋を出た隙に、斎藤を探しに逃げられてもいけない。クゥンと心細そうに鳴くブンタを撫で、すぐに戻るからね、と斎藤の部屋を後にした。サッとシャワーを浴びて、すぐに戻ろう。他人の部屋で一晩越すなんて考えもしなかったが、これは緊急事態なのだ。ブンタを思えば、仕方のないこと。そう納得させて、ちょっと口角が緩んだ。
自分の部屋のドアを開け、ただいま、と暗い部屋に向かって言った。どんなに嫌なことがあっても、疲れていても、そうしている。もう習慣なのだろう。中途半端に掃除された部屋。投げ出されたままのパソコン。あぁそうだ。千裕の亡霊と闘っていたんだ。そんなこと、もうすっかり忘れていた。負の感情は消え去り、今は頬が緩んでいる。
「単純だな」
鏡の中の自分が苦笑いする。別れた男を完全に忘れるには、新しい恋しかない。朱莉とそんな話をしたことがあった。千裕への感情を抹消するには、上書きするのが一番簡単だ。確かにそうかも知れない。確かにある温かな想いが、少しずつ嫌な気持ちを塗り替えている。
では、これは恋なのか。それはない、と思っている。今はまだ、それを肯定するにも、否定するにも自信がなかった。ただ、斎藤をもう少し知りたい気持ちは僅かにある。下の名前は何というんだろう。彼はいくつなんだろう。そんな些細なことが気になって、知りたいと思うようになった。果たしてそれは、恋と呼べるのだろうか。
シャワーを浴びながら、鼻歌を歌っていた自分に気付く。今の斎藤の状況を考えれば、浮かれている場合ではないのに。パシンと両頬を叩いて、体についた泡を綺麗に流した。浴室を出て、すぐに携帯を確認するが、斎藤からの連絡はまだない。母親は無事だろうか。
「動きやすくて、お散歩にも行けるくらいの服……」
ぶつぶつ言いながら、クローゼットを漁る。斎藤がもし帰って来ても、恥ずかしくない程度にはしておきたい。手に取ったのは、大きめのスウェットパーカーとワイドパンツ。これならゴロゴロも出来るし、散歩にも行ける。あぁそれから、薄化粧くらいはしておくべきか。鏡に映る自分は、やはりどこか緩んでいる。温かいお茶を用意して、ポットに注ぐ。バッテリー、ブランケット、一応パソコン。全部トートバッグに詰め込んだ。足りないものがあれば戻ればいいけれど、できるだけブンタが心細くないようにしたい。初めて犬と過ごす夜だ。不安とワクワクと、色んな気持ちがあった。自分の部屋の鍵をかけ、すぐに隣の鍵を開ける。何だか変な感じだな、と思いつつ、そのドアを引いた。「ただいま」と言う声が、さっきよりずっと弾んでいる。
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