第26話 それが答え
ピンポーン、とチャイムの音が聞こえてくる―――
重たい目蓋を持ち上げると、頭上にはブンタ。ハッハッと何やら嬉しそうである。ぼんやりと携帯を見て、一気に目が覚める。午前十一時三十九分。あぁ寝てしまった。何件かメッセージも届いている。きっと、斎藤からだろう。焦りながらモニターを覗き込めば、少し疲れた顔の斎藤が映っている。伸びをしながら付いて来たブンタは、クルクル回って嬉しそうに樹里を見上げた。すぐ開けます、と応答する声が焦っているのが丸わかりだ。何かを察したであろう斎藤は、何も言わずにペコペコと頭を下げた。相変わらず、ブンタは嬉しそうである。声も姿も見えていないはずの飼い主の帰宅を、彼はまるで分かっているようだった。
辺りが静かになった頃、ブンタの落ち着きがなくなった。斎藤を探し回り、不安そうに何度も鳴くのだ。いつになっても帰らない飼い主に、不安だったのだろう。ようやくベッドに丸まったと思えば、クゥンと鳴く。その度に、手を伸ばし声を掛けた。樹里もブンタも、短い時間、ウトウトしたくらいだろう。朝になって、外に出てはみたものの、散歩と言えるほどは歩いていない。用を済ますとすぐ部屋に帰りたがったのだ。メモ通りに出したご飯もあまり食べず、すぐに樹里に甘えて来た。そんなブンタを撫でながら、『斎藤さんのお部屋にいますね』とメッセージを打ったのは何時だっただろう。あぁきっと、そのまま寝てしまったのだ。
「すみません。寝ちゃって」
「おはようございます」
「あっ、えっと。おはようございます」
樹里は焦っていたが、斎藤は落ち着いていた。その笑みから、母親は無事だったのだろうと悟り、ホッと胸を撫で下ろす。気付けばブンタはもう斎藤に撫でられ、いつものような明るさに戻っている。息を荒くし、全身から溢れ出る喜び。良かった。幸せそうだ。何だか樹里まで、安堵で泣きそうになる。
結果として、斎藤の母は病気などではなかったらしい。風呂場で転び、骨折したという。念のため入院をし、今日は検査。明日にも退院できるようだ。足じゃなかったのが幸いだよ、と斎藤は笑った。高齢者の足の骨折は、そのまま歩けなくなることもあると聞いたことがある。腕でも大変だと思ったが、それを考えたらまだ腕で良かったのかも知れない。そう、ひっそりと思った。
ブンタは腹を出し、撫でて、とアピールし続けている。不安の色が消えたブンタと楽しそうに撫でまわす斎藤。目を細めて彼らを見ながら、ああやってやるのか、、と実は驚いている。加減が分からず、恐る恐る丁寧に撫でていた樹里。一方、斎藤はそれは豪快に撫でまわしている。動物を飼ったことのない樹里は、おっかなびっくりで接してばかりだった。この年で初体験だな、隠れて表情を崩した。すると、気持ちよさそうに撫でられていたブンタが、急にハッとしたように起き上がる。そして、さっき食べなかったご飯へ一直線に駆け出したのだ。ホッとしたら、腹が減ったのを思い出したのだろうか。樹里と斎藤は驚き視線を合わせると、少し間を空け腹を抱えた。それはちょっとだけ、幸せだなと思った。
「あぁ、ずっとここに居てくれたんですね。ごめんなさい。こんなよく知りもしないおじさんの部屋に」
「いいんです。ブンタが心配で、居座ってしまったのは私ですから。こんな格好でお恥ずかしい。すぐ片付けますね」
出したままのポットに手を伸ばし、トートバッグに突っ込む。全て片付いてから、ようやく身なりが気になった。頭をぺたぺたと触って、髪型が変になっていないことにホッとする。散歩に出た時にある程度は整えたから、まぁ大丈夫だろう。ご飯を食べ終えたブンタは、伸びをしながら近付いてくると、満足気に樹里の隣に横たわった。
「いろいろ大変でしたね」
「まぁ兄貴たちもいたし。元々、三男はマスコットみたいなものなんだよね。意見を言っても、どうせ兄貴たちは聞く気もない。細かいことは、兄貴のお嫁さんたちが動いてくれてさ。本当に何にも役に立たなくて、一人で色んな説明書き読んじゃったよ」
「説明書き、ですか」
「そ。ICUに入れるのは何親等まで、とか。事実婚のパートナーの治療方針の参加? とか。病院のあちこちにあった案内読み漁っちゃった」
「でも、お母さんは嬉しかったんじゃないですか。息子さんたちが、すぐに駆けつけてくれるって」
だといいけど、と斎藤は苦笑する。
彼には、兄が二人いる三男ようだ。男三兄弟ということだろう。ちなみに、樹里には兄が一人がいる。特別仲がいいわけでもなければ、悪いわけでもない。男ばかりの兄弟の関係性は、ちょっと想像できなかった。
「そうだ、松村さん。今起きましたよね?」
「あ、はい。すみません。よく寝ちゃって」
「それはいいんですよ。こちらが無理難題押し付けたんですし。で、お腹空きませんか? もしお時間大丈夫なら、お礼に何か作らせてください。買い物してないんで、あり合わせですけど」
えぇと、と思い悩んだが、確かに腹は減った。厚かましいかなと思いながらも、「いただきます」と微笑んだ。彼の安堵した顔に、ブンタの嬉しそうな様子。樹里は大役を終えて、ほど良い疲れと幸せを感じている。でもそれは恋ではなくて、ただ人としてホッとしたということだ。
「あぁ……どうしようか、な。うぅん」
「あ、無理なさらなくて大丈夫ですよ。お母さんも無事だったことですし、ブンタも斎藤さん帰って来て嬉しそうだし。私は、それだけで十分です。あまり気にしないでください。なかなか楽しかったですよ、ワンちゃんとの一晩も」
そう笑ってはみたが、想像していた以上に大変だった。分からないことが、多過ぎたのだ。散歩にしても、歩く速さや糞尿の処理。言われた通りにしたけれど、正解が分からず不安のままだった。自分で飼う時の予行練習にはなったが、それが活かされる日が来るのかは謎である。
「あぁ、いえ。そうじゃなくって、えっと。カレーなら、すぐに出来るんですけど……どうでしょう。お嫌いですか」
「いえ。好きです」
「良かった。すぐ作るので……うん。大丈夫。待ってて」
大丈夫、とは何か。樹里は首を傾げたが、彼は納得したようにキッチンに立った。慣れた手つきでエプロンに身を付け、手を洗い、冷蔵庫から食材を出して並べる。洗った野菜を切る音が、タタタッとリズミカルでとても心地良い。火をかけ始めるまで、魔法のようにあっという間だった。ショウガとニンニクの香りが立つ。玉ねぎをきちんと炒めるあたり、彼は料理が上手そうだ。
キッチンに並べられた見慣れたスパイスの瓶。それは樹里の会社のもので、離れていても何の種類か分かる。サフラン、クミンにシナモン。ハーブも沢山揃っていた。
「ブンタ。パパはお料理が上手なの?」
聞いても分からないだろうに、自然とブンタに問い掛けていた。一晩一緒に過ごして、友情の絆は深まった気がしている。夜よりもずっと安心した顔ですり寄るブンタを撫で、キッチンで調理する彼を見ていた。それは、今まで体験したことのないことだった。男の人に料理を作られたことなどない。一緒に作ったこともない。幸せな休日の夫婦みたいだな、なんて想像してハッとする。急に恥ずかしくなって首を振った樹里を、ブンタは隣で不思議そうに眺めていた。
「あ、あぁ……まぁ、いいか。よし」
斎藤が冷蔵庫を覗いて、ブツブツと言っている。料理のことだろうか。ブンタは彼をじっと見つめて、時折尻尾を振る。冷蔵庫から美味しいものが出て来る。そう思っているのかも知れない。
キッチンに立つ斎藤はとてもスマートで、手際もよく、無駄がない。僅かでも、彼を知りたいと思う気持ちがあるからだろうか。それが格好よく見えていた。
「さぁ、できたよ。お口に合うといいんだけど」
「わぁ、すごい。こんな短時間で?」
「ご飯は冷凍だけどね。どうぞ」
「はい、いただきます」
目の前に出されたのは、野菜キーマの上に半熟の玉子が乗せられたカレー。よくあるそのフォルム。これまでの試食でだって、似たようなキーマは沢山あった。だけれど、夕べ、ジングルベルを思い出したからだろうか。あの日のカレーに似ている気がしてしまう。気持ちがその時にトリップして、樹里はギュッと唇を噛んだ。
「大丈夫?」
「あ、はい。ごめんなさい。いただきます」
「デザートに……プリン、だけど。どうぞ」
「わぁ。ありがとうございます」
普通の、至って普通のプリン。だけれども、このカレーの脇に添えられると、それもよく似ているように思えた。まるで同じ物を並べられているような感覚になる。でも、これは偶然だ。彼が知るはずもないのだから。苦々しい気持ちを思い出しながら、カレーをすくい上げる。味は、全然違うはずだ。そう言い聞かせ、スプーンを口へ運んだ。
「え……」
思わず声が出た。あの日の味を完璧に覚えているわけではないが、スパイスの強過ぎない優しいキーマ。それから、カルダモンの香り。まだカレーを一口しか食べていないのに、スプーンを持ち換えた。プリンにそれを差し込む手が震える。そんなことが、あるか。樹里がプリンを口に入れた時、目が合った斎藤はとても申し訳なさそうな顔をしていた。きっと、それが答えだった。
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