第46話 あと少し
「斎藤さん。いろいろとすみませんでした」
「ううん。僕は大丈夫。そんなの気にしないで。でも、ごめんね。僕も何かあったらいけないって、感じなきゃいけなかったよ」
静かな公園で、二人は互いにペコペコと頭を下げた。だが当然、一頻り終われば沈黙は訪れる。樹里はつい緊張をしてしまうが、斎藤は違うのだろう。少し伸びをして、帰りましょうか、といつもの通り微笑むのだ。それが悲しくて、苦しくて、胸が詰まる思いがしていた。
「大丈夫? あ、そうだよね。おじさんと帰るなんて嫌だよね。ごめん、ごめん。気付かなくて」
「え? あっ、いや違うんです」
ただの乙女心です。とは、流石に言えない。疲れたなぁって思って、と笑顔を貼り付けた。ちょっと無理をしている。
結末が見えているのに、また勝手に想い、挫けただけだ。斎藤には関係がない話。それに、今は絶対に気付かれてはいけない。ただでさえ、今夜は頭も心も疲弊している。これ以上ダメージを受けるようなことは、避けておきたい。疲れたよねぇ、と人の好さそうな垂れた目尻が樹里に寄り添う。その優しさに小さな胸が揺れると、思わず目を逸らした。
「本当に大変だったねぇ。お疲れ様」
「女って、こういうことがあるから面倒なんですよね」
「男も男で面倒なところはあるよ。それを解決する方法が、違うのかな。でも、あの子。朱莉ちゃん? 彼女はとっても松村さんのことが好きなんだね。あんな風に思ってくれるお友達って、大人になるとありがたいよね」
「そうですね。本当にあの子には助けられてばかりです。斎藤さんのお店に伺った時も、あの子なんです。一緒にいたの」
「あぁ、そうだったんだ。そっか、そっか。本当にいいお友達だね」
斎藤は、朱莉のことを部下とも、後輩とも言わなかった。友達と言ってくれた。それがとても嬉しい。朱莉は今、一番の友達だ。寂しい時に隣にいてくれるのも、足踏みしているのを鼓舞してくれるのもあの子。同じように彼女に返せているかは悩ましいが、大切な存在である。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい」
手は繋がなくとも、ちょっとだけ近い肩。時々触れてしまいそうな距離で、二人は歩き始めた。
樹里は、努めていつものように振舞う。会話がなくなって気不味くなるのは嫌だから、つまらないことも沢山話した。恋人のことに触れないようにしながら。斎藤に気付かれないように、公園から一番近い駅ではなく、会社の最寄り駅へ向かう。少しでもゆっくり、隣を歩きたかった。そんなに遠回りになった訳じゃない。五分くらいだろうか。たったそれだけの時間が欲しいだなんて、ちょっと笑ってしまうな。
当たり障りのない話をして、電車に乗る頃には料理の話ばかりになった。仕事が遅くなると、つい夕食が疎かになってしまう。夜は量もいらないからできれば自炊したいが、なかなかそれは叶わない。そう言う樹里に、斎藤は簡単なレシピを教えてくれる。それを懸命にスマホにメモしていると、斎藤がちょっと笑っていた。思わずムスッとする。「ごめん、ごめん」と謝る彼。友人くらいの距離には……なれたかな。そう笑い合って、電車を降りる二人。周りからは、どう見えているのだろう。兄妹? 同僚? 友人? ……恋人? ヒロミがいなければいいのに。絶対に思ってはいけないことが頭を過って、小さく首を振って消し去った。
「今夜も冷えるねぇ。ブンタ、怒ってるかな」
「そうですよね」
「多分、帰ったらすぐに散歩行くって懇願されます。いや、ちゃんと行きますけどね。ほら、こっちもふぅってしたいじゃないですか。あの子、許してくれないんですよねぇ」
彼も以前より、フランクに話をしてくれるようになった。自己主張の強いブンタの顔が思い浮かぶ。きっと怒ってますよ、とケラケラ笑ったら、彼は苦虫を噛みしたような顔をした。砕けた関係になれて、楽しくて、嬉しかった。先などない、儚い関係。樹里だけが、密かに胸を痛めた。
「あ、お腹空かないですか」
「ん? あぁそうだよね。そんな時間だね。何だか色んなことあって、忘れてたよ」
「斎藤さん。ちょっと待っててください」
曲がらなきゃいけない交差点で彼を待たせ、樹里は少し先のコンビニへ駆けた。本当は、そこまでお腹は空いていない。ただ、何でもいいからお礼がしたかった。楽しい時間に、匂いの記憶を付けたかったのかも知れない。いつも寄るコンビニ。温かいお茶を二つ取って、すぐにレジに並ぶ。それから迷いなく、あんまんと肉まんを一つずつ買った。ノロノロと準備をするやる気のない店員がじれったい。会計を済ませ、それを両手に抱えると、「ありがとう、ございやっした」といつものように見送られる。それがちょっとだけ、今日は弾んで聞こえた。
「斎藤さん、斎藤さん」
「慌てないで、慌てないで。そんなにお腹空いてた? 帰って、何か作ってあげれば良かったね」
「いや、いいんです。あの……お礼です。どっちがいいですか。あんまんと肉まん」
「えぇ、いいの? じゃあお言葉に甘えて。あんまん、もらおうかな」
斎藤は素直に受け取ってくれた。お茶は彼のコートのポケットに捻じ込んで、樹里は肉まんの袋を開ける。美味しそうな湯気が、ふわぁっと上った。斎藤も並んで、同じように匂いを感じている。それから樹里に目をやって、ありがとうね、と微笑んだ。
「何か久しぶりです。こういう風に食べながら歩くの」
「あぁ言われてみれば、僕もそうかな。いつもはバイクだから。食べ歩きってしないんだよね」
「そっか。バイクに乗るんでしたね」
「うん。あぁ……こん」
「斎藤さんは、お車には乗らないんですか」
「あ、あぁ。うん。最近、車には乗ってないなぁ。近場しか行かないからかも知れないけど」
ヒロミとは、バイクでデートに出掛けるんだろうか。あまり話を広げないようにしよう。自己防衛が過ぎるだろうが、今はまだ大きなダメージを受けたくない。仕事で関わっていく以上は、それが終わるまでは避けていたいと思った。
中華まんを齧りながら、並んで歩く。半分こしたら良かったかな。そんなことを考えながら、斎藤の整えられた顎髭を見た。あのコンビニから、家まではすぐ。あと少し、あと少しでいい。この時間が続いたらいいのに。
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