第55話 ヒロミ

「平野くんの恋はどうなった?」

「あぁそれが。クリスマスのあの一件から、仲良くはなったんです。あの二人。平野くんは、とても嬉しそうなんですけど。朱莉は……子分ができただけとしか思っていないみたいで。何とも傍から見ていると残念なんですよね」

「そうかぁ。でもさ、ちょっと想像できるね」

「でしょう?」


 スーパーから家まで、カレーの話で持ちきりだった二人。隣の扉に帰りはしたものの、やはりブンタは散歩を催促し、すぐに樹里も誘いを受けたわけだ。満足気なブンタを間にして、二人と一匹は仲良く歩いている。こうして散歩をするのは、久しぶりのことだ。仕事でのせかせかした時間の流れと違い、ゆったりと時が流れている。沢山笑って、ブンタに癒されて。幸せだなと思うが、他人の彼氏なのにいいのだろうか。ヒロミが見たら、嫌に違いない。そんなモヤモヤが、今夜も離れて行かなかった。


「この時間でも暑いよね。ブンタ、大丈夫か。お水飲むか」


 斎藤は、事あるごとにそう心配した。目一杯の愛情をかけて、ブンタと過ごしているのがよく分かる。過保護な愛情を一身に受けて、ブンタは今日も楽し気だ。澄ました顔をして歩いて、時々こちらを見ては、ハッハッと笑っているようだった。


「あぁ終わったねぇ」

「そうですね。販売終了までは、私が責任を持って担当しますので」

「よろしくお願いします。あぁ。何か大きなことが一つ終わると、何か気分転換したくなるよね。何か始めようかな」

「そうですね……私は何しようかな。あ、そうだ。引っ越し」

「するの?」


 斎藤と出会ってしなくなっていた賃貸の検索。仕事も忙しかったし、すぐにでも引っ越したいとも思っていない。だが、斎藤の傍にいたら気持ちは断ち切れないだろう。どうせ告げたところでフラれるのは分かっている。告白して、引っ越すか。彼の結婚を聞いて、引っ越すか。それくらいの差でしかなかった。


「ほら、いろいろあったので。わぁって全部変えてしまいたかったんですよね。でも忙しくて、それどころじゃなくちゃって」

「あぁそうかぁ……そういうのもあるよね」


 意見に同意してくれた斎藤が、少しだけ目を伏せた。そのうちに、「でも、そうしたら寂しくなるなぁ」と呟きが聞こえて来る。聞き間違いか? 樹里は驚き、目を見開いて彼を見る。斎藤は力のない声で、なぁブンタ、と問いかけた。これはブンタの意見ということか。それとも……


「ですよねぇ。ブンタ、私も会えなくなるのは寂しいな。じゃあ、引っ越しはまだ先にしよう」


 樹里はブンタに笑い掛けるが、頭は混乱している。素直に斎藤の気持ちと捉えてよいのか。いや、だとしても……


「本当? ブンタ、良かったな」


 斎藤が笑えば、ブンタは嬉しそうにワンと吠えた。彼らの関係は、まるで兄弟のようだ。幸せな家族。きっとここにヒロミが入って、本当の家族になるのだろう。そう思えば、勝手に拗ねた。


「あの……じゃあ。仕事の関係は終えますけど、ブンタのお散歩、また誘ってもらえませんか」


 まだここにいたかった。斎藤とブンタと歩きたかった。深刻そうにではなく、無邪気に言ったつもりだ。彼が笑って「いいよ」と言ってくれれば、それで良かった。でも、斎藤は何も言わないまま樹里を見て、気不味そうに頷くだけだった。ヒロミのことが過ったのだろう。こちらこそお願いしますね、と言う彼が、少しぎこちなく見えた。これ以上は望んではいけない。そう強く思わせるような表情だった。

 樹里はブンタに笑い掛けたが、心は今にも消えてしまいそうだ。大人の恋愛は、いちいち身に染みる。その痛み一つ一つが、大きく重たい。ブンタに視線を向けたフリをして、ズンと項垂れていた。そんなまま、一歩二歩と進んで気付く。隣を歩いている斎藤の靴が見えない。慌てて振り返った樹里が目にしたのは、顔を歪ませ何故か固まっている斎藤だった。


「斎藤さん?」

「ヒロミ……」

「え?」


 その視線の先を辿る。暗がりから徐々に近付いて来るぼんやりとした人影。ヒロミ? きちんと捉えようと、樹里は目を凝らした。きっと、ブンタは分かったのだろう。嬉しそうに脇を掛けて行く。そして、笑いもしない斎藤が引っ張られ、樹里から離れて行った。

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