第17話 気恥ずかしくて、嬉しくて、こそばゆい

「よし。ブンタ、行くぞ」


 樹里がしばし撫でると、飼い主はブンタに向けてそう言った。クイッと引っ張られたリード。だが、ブンタは頑として動かない。いつもならいい子に彼の脇に立つのに、今夜はそういう気分ではないらしい。困った顔をした飼い主が、「行くよ。ブンタ」と優しく覗き込んだが、効果は見られなかった。


「まったく……そんなにお姉さんが好きなのか」


 彼が溜息を吐くと、ブンタは楽しそうに尻尾を振る。それはとても可愛らしいのだが、どうしたら良いものか。先に去った方が良いのだろうか。あれこれ考えてはみたが、結局どうすることもできずに、ただ右往左往している。


「すみません。ほら、ブンタ。お姉さんも困ってるよ。行こう」


 いつもの穏やかな口調が、少しだけ強くなる。それでもブンタは、珍しく動じない。まるでそれが聞こえていないように、樹里に身を摺り寄せるのだ。まだ撫でて欲しそうな顔をして。


「ブンタ。パパ、困ってるよ。お散歩に行っておいで」

「そうだよ、ブンタ。お姉さんだって、困ってる。ほら、行くぞ」


 ブンタは悲しそうに、こちらを見上げる。もう一度ブンタに手を伸ばし、お散歩行っておいで、と努めて優しく声を掛けた。気持ち良さそうな顔をするけれど、今夜はどうしても響かない。撫でる手を止めれば、止めるな、と言いたげにギュッと体を押し当てた。


「あの……一緒に、お散歩に行ってもいいですか」


樹里は悩み、思い切ってそう言った。もうそれしか思いつかなかったのだ。


「え? あ、いや。大丈夫ですよ。抱えてでも行きますから」


目を丸くした彼は、いやいや、と断った。それはそうだ。よく知りもしない女と散歩になど行けるか。急に恥ずかしくなった。ブンタのことを見ていたら、一緒に行けばいいのではと安易に考えてしまったが、そもそも幸せな家庭のお父さんに提案することではない。しかも住んでいるマンションの入口で。青褪めた樹里は、勢いよく「ごめんなさい」と頭を下げた。


「よその旦那様にする提案ではありませんでした。すみません。私の方こそ。奥様に申し訳ないです」

「え? 旦那様……奥様?」

「え?」


 二人のぶつかり合った視線は、パチパチと二度瞬いた。可笑しなことは言っていない。それなのに彼は、まるでそれを飲み込めないようだった。


「あの……僕、独身です」

「え? えぇ?」

「すいません。おっさん一人と犬一匹で住んでます」

「あっ……余計なことを言いました。すみません」

「いえいえ。気にしないでください。結婚していておかしくない年ですからね」


 ハハハッと彼が笑ったら、ブンタがワンと吠えた。飼い主が笑うと、ブンタもきっと嬉しいのだろう。可愛らしくプンプンと振れる尻尾。だが、樹里はちょっと落ち込んだ。これでは部長と変わらないじゃないか。余計な一言は、相手を傷付けるだけだというのに。


「もし本当にお時間が大丈夫だったら、一緒に行きませんか。そこの公園までですけど。あぁ、でも……おじさんが、若い女の子を誘う時間でもないですかね」

「若い……いや、若くはないですし。女の子でもないです」

「いえいえ。僕からしたら、可愛らしい女の子ですよ。こっちはおっさんですからね」


 ボッと自分の頬が赤らんだのが分かった。こんなにもと呼ばれる日があるだろうか。でも今のそれは、部長に言われたのとは違う。そう言われて、気恥ずかしくて、ちょっと嬉しくて、こそばゆい。そんな感覚だった。樹里は、へへへと鼻を少し擦る。それから、一緒に行ってもいいですか、と微笑んだ。

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