第16話 何もかも、上手くいかない時

「はぁぁ……」


 大きな溜息を吐いた樹里を、すれ違った人が二度見する。金曜だから、と朱莉が誘ってくれたが、そんな気分になれなかった。仕事は皆の纏まりが出て、雰囲気も良くなったというのに。酷くどんよりとした重たい気持ちだけが、樹里を覆っている。

 原因は、帰り際の部長に言われた言葉。未だ店の決まらないプロジェクトに、発破を掛けるつもりだったのだろう。だが、最後の一言が余計だった。「女の子が結婚もしないで頑張ってるんだ。成果は必ず出るさ」と。女の子かどうかはさておき、それはサラリとした嫌味だった。ハラスメントですよ、と遠くから誰かが言ってくれたから、追攻撃がなかったことは幸いだったが。どうせ結婚を逃した女です。そんな捻くれた気持ちが湧いてしまったのだ。部長はすぐにいなくなったが、そこには無暗に傷付けられた心だけが残った。

 折角、皆が纏まって来たというのに。あのカレー屋は思い出せなくとも、プロジェクトはだいぶ進んだはずなのに。心はスッキリしない。自棄酒をする気にもなれない。健やかな感情を失くし、ただムシャクシャしていた。


「ジングルベール、ジングルベール」


 塾帰りだろうか。楽しそうに歌いながら歩く子供たちとすれ違う。更に絶望を見た気分だった。すぐにこの歌が聞こえる季節が来る。早々に点灯されたイルミネーションには、何の感情も湧かなかったが、あの曲はそうもいかない。今の可愛らしい声でさえも、樹里にはいつもの陽気な声に変換されていくのだ。

 家まで、もう少し。今夜はお気に入りの入浴剤を入れて、温かい風呂に入ろう。それからハーブティを淹れて、ゆっくりと飲もう。何とか自分を奮い立たせた。


「あれ、こんばんは。今お帰りですか」


 家に帰ってからのシミュレーションを悶々としていたら、急に声を掛けられ身を縮めた。恐る恐るそちらへ目をやれば、嬉しそうに尻尾を振るブンタと優しそうな飼い主。これから散歩なのだろう。彼らはマンションから出てきたところだった。気難しい顔を何とか口角を上げて誤魔化して、代わりに笑顔を乗せた。お疲れ様です、と丁寧にお辞儀をする飼い主を見上げてから、ブンタはワンと元気に吠える。


「こんばんは。ブンタ、今日もパパとお散歩いいねぇ」

「大丈夫ですか。何だかちょっとお疲れみたいですね」

「あぁ、ちょっと。仕事で嫌なことがあって。でもまぁ、仕方ない話なんです。色んな人がいれば、色んな意見があって、色んな感覚があるんですから」


 部長の何も悪いと感じていない顔が浮ぶ。女は、もっと早く結婚しなければいけない。何なら、子供を産み育てて、家にいなければいけない。そんなことを言う年代でないと思っていたが、根底にその気持ちがあるのだろう。傷付いた心は、一向に上がって来なかった。


「あの……ブンタ、触ってもいいですか」

「あっ、はい。どうぞ。多分、撫でられる気でいるので……寧ろお願いします」


 呆れた顔をして、彼はブンタに目をやる。確かにブンタは、もう撫でられる気満々のようだ。それがとても愛らしくて、自然と頬が緩んだ。あぁ前にもこんなことがあったな。ブンタに触れた温もりは、いつも心を解してくれる。それに、飼い主である彼の穏やかな声。何もかもうまくいかない時は、やっぱり誰かに優しくされたい。

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