第18話 胸が小さく鳴った

「本当にすみません。ブンタがこんなにわがまま言うことないんですけど、お姉さんのことが好きみたいで」

「いえ。気にしないでください。嬉しいですよ。ブンタ、可愛いですもん」

「可愛いだってよ? ブンタ、良かったなぁ」


 二人の間を意気揚々と歩くブンタ。初めて一緒に歩く樹里に、まるで道案内をしてくれているかのようだった。こっちだよ、とチラチラ目配せをするのが可愛らしくて、思わず笑みが零れる。さっきまで、あんなにどんよりしていたのに。もう、笑ってしまうくらいに心が温かい。

 名前も知らない男性と並んで散歩をしている。何だか変な感じだ。同じマンションに住んでいることしか知らないが、彼はきっと悪い人ではない。そんな気がする。


「お仕事、忙しいんですか」

「そうですね。今、ちょっと上手くいかなくて。だいぶ頭抱えてます。あ、そうだ。ちょっと関係ないんですけど、三田の方って行きますか」

「三田、ですか」

「はい。ちょっと前にシェアレストランに出ていたカレー屋さんを探していて。名前が思い出せなくて、何かこうブサ……個性的な象の絵がロゴだったんですけど」


 何でもいいから情報が欲しかった。玉ねぎとトマトが丁寧に調理されていて、それに半熟の玉子が混じったカレー。それから仄かに香るカルダモン。仕事だけが理由で探しているのか問われると、答えはちょっと難しい。単に、気持ちが落ち着いている時に食べたい。もう一度、あのカレーを純粋に食べてみたいのだ。


「個性的な、象……ですか。あ、あぁ、えっと……すみません。あまり三田には行かなくて。お仕事の関係で探しているんですか」

「うぅん……どうでしょう。単に私がまた食べたいだけですかね。仕事が上手くいかなくて、あれ食べたい、みたいな」

「そっかぁ。そういう時もありますよね。何をやっても上手くいかない時って」

「そうですね。今日なんて、ホント荒んでました。このまま家に帰ったら、悶々として、ただ苛ついてたかも知れない。ブンタに助けられました」

「良かったです。疲れたらいつでも癒されてください。ブンタは大歓迎ですから。離してくれない可能性もあるかも、ですけどね」


 フフッと静かに笑うのが、大人だなと思った。樹里だってもう随分大人だけれど、彼からすればまだまだなのかも知れない。姿勢よく一歩を踏み出す彼。部下からも憧れられていそうな感じがする。彼は愛しい者を見るような目で、ブンタに視線を落とした。


「ブンタは、保護犬だったんです」

「保護犬、ですか」

「えぇ。前の飼い主の飼育放棄で。まだ小さい時にウチに来たんですけどね、初めは怯えて。今はだいぶ落ち着きましたけど、やはり人間に警戒をしてしまうことが多くて。でも、お姉さんには自分の意志で歩み寄った。ご迷惑だったでしょうけれど、僕はそれが嬉しかったんです。今日もこうしてお姉さんに甘えちゃいましたけど、また撫でてもらえたらありがたいです」


 そんなことがあったなんて、考えもしなかった。生まれた時から皆に愛されて、可愛がられて来たのだと思っていた。自分の考えだけで決め付けるのは良くない。今日はそんな反省ばかりだ。


「私は……お兄さんのお家に貰われて、ブンタはとっても幸せだと思います」

「そうですかねぇ。それならいいんだけど」

「私は、ほんの一瞬しか知らないけれど。でも、ブンタはとっても幸せそうに見えます。それに、お兄さんを信頼してますし」

「そうかなぁ。そうかぁ……何か、ありがとう」


 照れくさそうにはにかんだ彼。樹里は、ちょっとホッとした。ブンタは言葉を喋らないから、きっと不安なこともあったのだろう。嘘でも誇張でもなく、ブンタは幸せそうに見える。だからきっと、これからも二人は幸せだと思った。


「今日は月が綺麗ですね」

「え?」

「ほら。ちょっとしか見えないけど」


 彼はスッと空を指差した。ゆっくりと、瞳はそれを追う。夜空には確かに綺麗な月光。隠れて全ては見えないというのに、その僅かな光でさえも美しい。あんなにしょっちゅう見上げていたのに。全て一緒に忘れてしまおうとしていたことに気づく。そうして、久しぶりに誰かと共有できた喜び。樹里の胸が、小さく鳴った。

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