第30話 不純な感情
「樹里さん、喫茶店のカレー美味しかったです」
「え? 食べて来たの?」
「そうなんですよ。実は五反田のお店がお休みだったんです。ちゃんと調べて行ったはずだったんだけどなぁ」
おかしいなぁ、と言いながら、首を傾げる大樹。どこか抜けているのは、彼の専売特許である。「またやったのぉ?」と誰かが声をかけると、大樹は幾らか拗ねたようだった。まぁまぁ、と彼を宥めながらも、実はホッとしている。大樹の敏感な味覚センサーが『美味しい』と評価したのだ。それは、自分のことのように嬉しかった。
樹里の恋は終わりを告げたが、実際ところ、あの小さな穴が埋まった感覚はない。一度芽吹いてしまった感情は、簡単には消えないということなのだろう。心の奥に、淡く淡く潜んでいる気がするのだ。けれど、それがまた湧き出たとしても、気持ちには蓋をすることに決めている。ウジウジ考えたって現状は変わらないし、真正面からぶつかってみようとも思わない。それは自分の気持ちに嘘をつくことではなくて、不毛だと分かっているからだ。それに、今は仕事が忙しい。そうしているうちに、自然に薄れていってくれたら幸い、というところだろうか。
「僕の中で、一番かも知れないです。キーマなら、レトルトも難しくないですし」
「そうね。お蕎麦とかのつゆだと、箱入りが難しい。カレーと銘打つからには、レトルトカレーの棚に同じように陳列されてた方が良いもんね」
「そうですね。お兄さんも優しい人でしたよ。決まった後の打ち合わせも、難しくないだろうなって印象を持ちました」
そうでしょう? と言いたくなった口をギュッと閉じて、それは良かった、と穏やかな顔を見せる。本当はもう、斎藤の笑顔が浮かんでいる。だからちょっとだけ、口元が緩んだ。
「折角だから、皆にも食べて貰おうか。お昼は食べた人が多いだろうけど、一口くらいなら食べられるでしょう」
「ですね。じゃあ、ミーティングルーム押さえますね」
「よろしく」
樹里は周りにいた人たちに声を掛け、味見を頼む。机からマイスプーンを出し、評価を記すタブレットなどを手に取るメンバーを見て、またピリッとした緊張が走る。純粋な……不純な感情はさて置いて、斎藤のカレーは美味しい。だから、大丈夫だ。樹里は、前を向いた。
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