第44話 揺らいでいる

「落ち着いて。朱莉さん、落ち着いて」

「だって……だって、樹里ちゃんがどんな気持ちで」


 自分も苦しそうな顔をして、大樹は必死に朱莉を押さえた。好きな子が壊れてしまいそうで怖いのだろう。何だか他人事のように、樹里は彼らを見ていた。驚きで、苛立ちが引っ込んでしまったのだ。


「朱莉。大丈夫よ。ありがとう」

「樹里、何なのよ。コイツら。どうして私が、知らない奴らに責め立てられないといけないわけ?」


 シレッと香澄はそう言い放つ。それに憤慨して、朱莉がまた取っ掛かりそうになった。それでも、香澄は表情一つ変えない。


「朱莉、大丈夫だから。ね? あのね、小笠原さん。彼女たちは、コイツらではないの。私の大切な同僚よ。そんな風に言わないでくれる? でも……急に驚いたわよね。失礼をしたことは、謝罪するわ。ごめんなさい」


 冷静に頭を下げると、どうして樹里ちゃんが謝るの、と朱莉の声が震えた。彼女は、樹里が落ち込んでいたのを一番見ている。立ち直り、淡い恋をし始めたことも、彼女が一番よく知っている。だから、悔しく感じてくれるのだろう。その気持ちは、本当に嬉しかった。


「別に……いいわよ。殴られたわけじゃないし」

「そう、ありがとう。じゃあどうか、この話終わりにしてくれないかな。何度も言うけれど、私はもう関係ない。あなたたちが結婚しようと、喧嘩をしようと、私には関係がないの。今後、畑中さんのところへ戻ることもない。どうしたら、分かってくれる? それとも……小笠原さんは、私がこういう風に言うのも気に入らないのかな」


 樹里は、真っ直ぐに香澄を見つめた。瞬きもせずに、ジッと彼女の目を見ている。香澄はずっと、樹里のことを目の敵にして来たのだ。どうしてかは分からないが、彼女は樹里のことが気に入らない。それだけは、いつだって感じていたことだった。

 そして今、こう指摘されたことが癇に障ったのだろう。ピクピクと片頬が歪んだのを、樹里は見逃さなかった。


「畑中さんには言ったけれど、私が許せなかったのは嘘をつかれていたこと。何がきっかけで二人で会うようになったのかは知らないし、毎度何を楽しくお喋りしていたのかも知らない。粗方、私の悪口を零してたんでしょうけど」

「そんなこと、ないよ。樹里、そんなことは」


 千裕が必死に否定する。今更そうされたって遅い。樹里は、冷ややかな目を彼に向けた。


「千裕。もうやめたら? 樹里の言う通りよ。千裕は毎回、アンタの愚痴を言うために、そのためだけに私を呼んだ。アイツの会社の方がでかい。給料だってアイツの方がいい。それで結婚したら俺の面子が、とかねぇ。そんな話ばっかり」

「黙れ。そんなこと言ってねぇだろ」

「嘘。別れようかなぁ、って言ってたじゃない」


 別れようかと千裕が言った? そんなこと言うわけないじゃないか。千裕に視線を向けると、気不味そうに目を逸らした。あぁ、本当なんだ。樹里は、あからさまに大きな溜息を吐いた。もうどうだっていいわ、と言う声が震えている。見苦しい言い訳に聞こえるかも知れない。斎藤には見られたくないが、今この場で綺麗さっぱり終わりにしたい。


「ねぇ、小笠原さん……あなた、彼のこと好きなわけじゃないわよね? ただ、私のものが欲しかっただけ。私の幸せを壊したかっただけ。違う? 私のことが気に入らなかったのよね。だから、壊しちゃえとでも思ったんでしょ。何が気に入らないのか分からないけれど、どうしてかいつも私に突っかかってきてたものね」


 香澄は言い返さず、歯をキリキリさせた。千裕は、ポカンと間抜けな顔をして固まったまま。なるほどねぇ、と理解をしたのは朱莉だけ。彼女は全て見通したのだろう。女の醜い感情を。


「だとしたらね。もう壊れたんだからいいじゃない。お礼を言うのも変だけど、私も彼の本性を知れた。結婚に失敗しなくて済んだ。ありがとう」


 樹里が穏やかに言えば、香澄は悔しそうに唇を噛んだ。そして、できるだけ穏やかな声で繰り返す。もういいんじゃないかな、と。


「私たち、もう三十七よ? こんな子供染みたことで時間を使うなんて、勿体ないと思わない?」


 香澄は目を背け、頻りに口元を動かし、ゴクリと唾を飲み込む。それから、大きく長い息を吐いた。そして、クルンとした睫毛がゆっくりと持ち上がる。


「あぁあ……上手くいってたのに」

「どういうことだよ、おい。小笠原」

「煩いなぁ。そういうことだよ、千裕。私は、樹里が不幸になれば何でも良かったの。完全に壊しきれば、私の勝ちだと思ったのに」

「どういうことなんだよ……」

「千裕だって、樹里と別れようかなって確かに言ったじゃない。だからね、思い付いたのよ」


 渦中の千裕は、パニックだった。意味分かんねぇよ、と何度も頭を抱える。憐れだはと思ったが、優しい手を差し伸べる気にはならない。そして全てがバレた香澄は、まったく動じなかった。あぁあ、と言いながら、首をグルグル回している。

 樹里はさっき、香澄の言葉に彼女の本心を見つけてしまった。どうしで私じゃなくて樹里なのか。そう漏らした言葉が、本心なのだろう。恐らく香澄は、ただ樹里を陥れたいだけなのだ。


「小笠原さん。私はね、あなたが羨ましかったよ。どんなに仕事がハードな時も、自分を見せることを怠らない。ネイルだって、スキンケアだって、手を抜いたことないでしょう。私はそういうの、すぐ雑にしちゃうから……凄いなぁって見てたよ」


 香澄の片眉がぴくッと持ち上がる。

 彼女はいつでも、輪の中心にいないと気が済まないタイプだ。可愛いね、とチヤホヤされていたいし、仕事もできて凄いね、と認められたい。そういう子だ。外見のタイプは全く違う二人。彼女が樹里を目の敵にする理由は、正直分からない。部署もまったく違ったし、そうそう絡むことすらなかった。それでも、樹里の方が認められているとでも感じていたのだろうか。あぁでも、もっと違う何かがあったような気もする。思い出せない。


「小笠原さんは、私にないものをちゃんと持ってる。そんなに敵対心を持たなくたっていいのに……ねぇ、どうして仲良くなれなかったんだろう。私たち」


 香澄はハッと目を見開き、樹里を見る。茶化しているわけではない。真面目にそう言った樹里の顔をじっと見るのだ。そして一時を置いて、腹を抱えて笑い出した。何が可笑しかったんだろう。樹里は腑に落ちなかったが、香澄が僅かに表情を崩す。仲良くなれなかったんだろうかぁ、と呟いて。


「そんなこと、考えたことなかったわ。だって、全てにおいて、女はみんな敵じゃない」


 香澄はどこか必死だった。自分の信念と違う考えに、動揺しているようにも見える。きっと彼女には、こうして言ってくれる人がいなかったのかもしれない。


「敵かぁ……悲しい言い方だね。私はね、同性の友達がいるって幸せだと思ってる。結婚した子とは考えが違ってしまったけれど、未婚は未婚で楽しいことがあるじゃない。行き遅れてるって思われてたって、好きに旅行に行ったり、自由にできる。結構楽しいもんよ? 男なんていなくても」


 この場にいる半分が男なのに、こんな言い方をするのは良くないか。そう思ったところで、取り消せやしない。香澄の表情は多少和らいだが、腕を組んで、まだ苛立っているように見えた。「あの、ちょっといいですか」朱莉が口を開いた。


「黙って聞いてたけど……敵って言うのはさ、刃を向けてきた奴だけだと思うの。樹里ちゃんは、あなたにそれを向けた? 男に評価されることで、満たされることもあるとは思うけど。人生ってそれだけじゃないじゃん。樹里ちゃんはね、今すっごく仕事を頑張ってる。責任者として、フル回転だよ。それを評価するのは、男だけじゃない。私は後輩として、凄いなぁって思ってるし、憧れるよ。同性だから、見える部分もあるでしょう? ねぇ。樹里ちゃんは、敵じゃなかったんじゃない?」


 香澄はじっと黙ったまま、彼女の話を聞いた。この二人が喧嘩になることだけは避けたい。そう樹里はヒヤヒヤしていたが、意外にも香澄は言い返さなかった。それどころか、そうかぁ、と小さく言うのだ。組んだ腕を解き、表情が崩れるような、全身からポロポロと棘が抜けていくように見えた。泣きはしない。悔しそうな顔も見せない。だけど、分かる。これまで強く持っていた信念が、きっと今、彼女の中で揺らいでいるのだ。

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