第43話 足音
「小笠原さん……」
「樹里。久しぶりねぇ。元気だった?」
厭味ったらしい口調は、いつ会っても変わらない。クルッと丸まった睫毛。つやつやした肌。綺麗なネイル。何があっても、そういう手入れは怠らない。それが、小笠原香澄という女である。
「千裕、言ったでしょう? もう樹里は別の方向を見てるって。それとも、こそこそ続いてたの? 二人」
「あぁ、小笠原さん。それはない。続いてない。あの時に、きっちり別れたと思ってる。だから今更ね、子供が嘘だったって言われても」
「そう、困るわよね」
香澄が樹里の気持ちを代弁する。それが千裕の心を逆撫でしたようだった。お前は黙ってろ、と怒り、鋭く香澄を睨み付ける。それに樹里は驚いた。傍で見てきた六年半、彼がこんな風に感情を剥き出しにしたことなどなかったからだ。
「何、本当のことじゃない」
「子供がいるなんて嘘をついて、何なんだよ。一番ついたらいけない嘘だぞ。分かってんのか」
「はぁ。だって、そうでもしないと樹里と別れなかったでしょう? 私はそのきっかけを与えてあげたんじゃない」
香澄は開き直ったのか、堂々とそう言った。彼女もまた、怒りを孕んでいる。千裕へなのか、樹里なのか。単純に何かが気に入らないのか。どの方向を向いているのかは、まだ見えない。
「じゃあ、結果的に別れたんだから、もういいんじゃない。そっちで勝手にやって。お願いだから、私を巻き込まないで」
「そうよねぇ。私は、樹里を苦しめるつもりなんてないの。だって、もうあれから何ヶ月も経ってる。忘れるわよねぇ。別れた男のことなんて」
香澄にそう言われるのは腹が立ったが、そうね、とだけ呟いた。今は千裕のことを思い出すこともない。唯一それに触れるのは、あの曲くらいだ。けれど、そういうのを乗り越えながら、前に進むものだと思っている。いつまでも同じ場所に、留まっている暇はない。
「千裕。そう言ってるよ? 樹里、困ってるじゃない」
「小笠原は黙っててくれ。俺と樹里の話だ」
「あ、いや。だから。私はもう無関係で、そちらで勝手に仲良く話し合ったらいいと思うの。何があっても、私が畑中さんのところへ戻ることはないし」
「あ、樹里。もう彼氏できたのぉ」
どうしてこの女は、人の気持ちを逆撫でするのが上手いんだろう。冷静にしておかないと、香澄の思う壺だ。現状の大まかなことは聞いている。これ以上、事が大きくなるのはごめんだ。このままやり過ごしたい。 握り込んだ拳の内側で、爪がググっと刺さった。それを開きはしない。ただギュッと何度も握り込んだ。
「そんなことは、あなたたちには関係がないよね」
「えぇ隠さなくたっていいのに。でもいい加減、千裕も分かったでしょう?」
ふと樹里は、違和感を覚えた。香澄はどうして、こんなにも千裕にこだわるのだろう。そもそも、彼は彼女の好みではないはずだ。好きで好きで堪らない、とも感じられない。子供がいると嘘をついてまで、どうして千裕を欲しがるのだろう。
「小笠原、分かってくれよ。子供ができたって言われたから、腹を括って指輪を買った。でも子供がいないのなら、俺は樹里とやり直したい」
「何なのよ。樹里は迷惑だって言ってるじゃない」
「そもそも、お前が嘘をつくからこんなことになるんだろ」
「どうして樹里なわけ? 私よりも、どうして樹里なのよ」
香澄が本気で苛立っているのを見て、あぁ、と樹里は納得する。自分の中の疑問が、繋がったのだ。
「樹里。何なのよ。もう私の邪魔しないで」
眉間に皺を寄せた香澄が、大きな声でそう言った。樹里はただ困惑する。邪魔をしているつもりもない。寧ろ、彼には消えて欲しいとすら思っているのに。首を傾げようとした時、後ろから誰かが近付いて来る気配を感じた。一人ではない、数人の足音が聞こえる。恐る恐る振り返った樹里が目にしたもの。
「ふざけんな」
そう言いながら樹里の脇を抜け、香澄に突進して行ったのは朱莉。その後を追って来た大樹が、彼女の肩に手を掛けて二人を引き剥がした。
樹里はただ唖然としている。どうしてここに、この子たちがいるのか分からなかったからだ。また人の気配を感じてハッと振り向き直すと、一番ここにいて欲しくない人と目が合った。それは、とても申し訳なさそうな顔をした斎藤だった。
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