第1話 女は少し笑った
「
「は?」
最後に聞いたジングルベルから、もう半年。真夏の暑苦しい金曜日の仕事終わりのこと。目の前でストローを弄りながらそう言った女に、
数年ぶりに連絡をして来て、そんなことを急に言い出した女――
「えぇと、ごめん。小笠原さん。一体、何を言ってるの」
動揺することもない。ただ、コイツは何を言っているのか、と訝しんでいるのである。すると香澄は、当然そう言うよね、と目を伏せた。ちょっとだけいつもの香澄と違う感じがする。会わない間に何か変わったのだろうか。樹里の中の違和感が揺れた。何があっても自信満々でいるのが小笠原香澄という女。仕事でミスをしたって、堂々と誰かに擦り付ける。そんな女なのだ。今までこんな顔を見たことはない。本気で言っているだろうのか。
「とにかく、千裕と別れて。お願いします」
そう言って、今度は頭を下げるではないか。この子が頭を下げるなんて。樹里の正直な気持ちは、そう驚いている。このよく分からない状況。全く本質が見えない。どういうことなのか。
彼女の言う『千裕』とは、付き合って六年になる樹里の彼氏――
「小笠原さんの意見は分かったけれど、どうしてそんなことを言われなければいけないの? チヒ……畑中くんが何かした?」
「何か……そう。樹里は何も知らないのね」
「は? だからどういう意味なのよ」
彼女の言い方に、感情がピリッと尖った。千裕が何か愚痴を零したとしても、香澄がこんな風に言う資格などあるか。膝の上で丸めた拳に、グググっと力が入る。樹里と千裕の関係においては、香澄はただの他人だ。外部の人間じゃないか。とやかく言われる筋合いもない。呆れるような感情と怒りが、腹の底でグラグラと沸き立ち始めた。
「私、千裕との子供が出来た」
香澄はそう言うと下唇を噛んだ。え、と思わず零れた小さな声を飲み込んで、樹里は固まる。今、子供が出来たと言ったか。どういうことだ。冷静を装いながらも、混乱している。千裕は優しい男だ。誰にだって優しい。ちょっと言い寄られてほだされるようなことも、無いとも言えないが。簡単に浮気をするような男ではないと思っている。六年も一緒にいるのだ。そのくらい、樹里が一番理解している。そんな大胆なことを、千裕は出来やしない。
そうやって頭の中を完結させようとするが、なかなか簡単にいかない。これまで見たことのない香澄の様子が、それを端っこから破壊していくのだ。これは、本当なのか。現実なのか。樹里の心がざわざわと騒ぎ始めた。
「千裕にも話はしたの。でも、堕ろせって。結婚もできないって。あぁ樹里だって……悔しくて。樹里と付き合ってるのは、同期から聞いてた。それなのに……ごめん」
そう話す香澄は大きな瞳一杯に涙を溜め、真っ直ぐに樹里を見つめた。本当に、千裕が堕ろせと言ったのか。その言葉がどれだけ残酷なのかは、同じ女として理解する。やることだけやって、逃げる男は最低だ。ただ、そんなことを自分の彼氏がするだろうか。千裕はそんなことはしない。するはずがない。だけれど、少しずつその自信が欠けていく気がした。
香澄はグズグズと鼻を鳴らす。自分のお腹の中で大きくなる命。それを感じてしまうと、漠然とした未来が不安で仕方がないのだろう。父親はいて欲しい。そう願うのも当然だ。樹里は、どこか他人事だった。フワフワと浮いているような気がして、きちんと現実を捉えることができないでいる。
「本当は出すつもりなかったんだけど……」
そう断って、香澄はバッグを漁り始めた。それを見つめる樹里は、酷く冷めた目をしている。努めてそうしなければ、動揺を表に出してしまいそうだった。これを信じて、飲み込まれてはいけない。そうギリギリと奥歯を噛み締めていた。
そして、香澄が出したのは一枚の写真。黒っぽい砂嵐のようなそれは、そういうことに疎い樹里でも何であるかはすぐに分かった。これは、いわゆるエコー写真だ。子供ができた時に見るというアレである。香澄はただ悲しげに、それをじっと見つめていた。
「樹里には申し訳ないと思ってる。でもね、まだこんな豆粒だけれど、ちゃんと生きてる。来年の春には生まれるの。四月十六日。どうか……お願いします」
お腹を撫でながら、香澄はまた頭を下げた。困惑と不穏の色がどんよりと渦巻いている。これは現実なのか。樹里とのことを知っていたくせに。平然と千裕と関係を持って、結果こんなことを言うのか。言ってやりたいことは山ほどあった。
焦るな。焦るな。樹里は何度もそう念じる。千裕がそんなことをした? さり気なく、首にかかったネックレスに触れる。先月の誕生日に彼がくれた物だ。本当は指輪が買いたかったけどサイズが分からなくて、と照れた顔は今でも思い出せる。あれすら嘘だったと言うのか。今度一緒に見に行こう。千裕は確かにそう言った。それなのに。
樹里は、小さな深呼吸を何度も繰り返した。香澄にバレないよう細く息を吸い、それからワザと大きく息を吐き出した。前を向く。動揺は見せない。それだけを心に決めて。
「小笠原さん。あなたが今、不安なことは分かった。でも今の話だけで、私は簡単に信じることも出来ない。あなたと千裕との関係……何か分かる物ある?」
努めて冷静に話をしたつもりだ。本当は心臓は口から飛び出そうだし、服の中は冷や汗をかいている。それでも、真実を見極めなければいけない。樹里だって、彼との結婚を描いてきた。それも、もう長く思い描いているのだ。
「写真……一緒に撮ったのはないんだけど。これなら、少しは信じて貰えるかな」
香澄は携帯を随分長くスクロールしてから、一枚の写真を樹里に見せた。それは、千裕がスヤスヤと眠っている姿。彼の後ろにぼやけて見えるのは、香澄が今している時計だ。周りに置かれているクッションはフワフワしていて、いかにも彼女が好みそうな物に見えた。何かが崩れる音がする。だって場所がどうであれ、ここに写っているのは、見紛うなく千裕だ。不安はどんどん大きくなった。
「千裕、だね」
「そう、ね」
妙な間が空く。言葉が続いていかない。冷静に対処してしまいたいのに、また一段と心臓の音が大きくなった。血の気が引くのが分かる。それでも、耐えなければいけない。これは確定した話ではない、一方的な訴えに過ぎないのだ。樹里は強く前を向くしかなかった。
「分かった。あなたの言い分は聞きました。でも、今ここで何かを決めるのは、到底無理なことは分かるよね」
「う、うん。分かってる」
「良かった。事が事のようだから、私もきちんと彼と話をします。だから持ち帰らせて貰ってもいいかな」
動揺は絶対に見せない。努めて冷静に。樹里の心はそう何度も何度も唱えた。香澄は潤んだ瞳で、大きく頷いている。泣きたいのは、こっちだというのに。
三十七年生きて来て、こんな事態に遭遇したことはない。正解が分からないのだ。それでも、取り乱したらいけないのは分かっている。だって、これは罠かも知れない。千裕は、そんなの合成だろうって笑うかも知れない。今、彼を信じなくてどうする。仕事でもしているかのように振舞うが、心は必死に踏ん張っている。
「よろしくお願いします」
「あぁ……いえ」
あの香澄があまりに丁寧に言うから、樹里は一瞬戸惑った。体は大切にね、とでも言えばいいのか。でもそれは、女としての意地が言わせない。こうして余裕のあるフリをするのが精一杯。不安で一杯な胸は、奥の奥に仕舞うしかなかった。
「樹里、本当にごめんなさい。でも聞いてくれて、ありがとう」
涙を拭いた香澄が、チラリと樹里の首元に視線を寄越す。そして、少しだけ、ほんの少しだけ……笑った気がした。
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