第53話 あのジングルベルの意味

「本当に驚いたねぇ」

「そうですね」


 あれこれ話をするのに、この話題に戻るのは何度目か。それくらいに二人は、興奮を覚えているのかも知れない。誕生日が同じ人など、なかなか出会うものでもない。キュンとした胸も落ち着き、樹里も奇跡のような誕生日を楽しんでいる。それは、店内に流れるリズミカルなジャズも手伝って、お酒でも飲んでいるかのような気持ちだった。

 新しい調味料を勧めてみたり、これを合わせたら旨いんじゃないか、なんて話してみたり。会話がスムーズに流れていた時、ジリジリとレコードが止まった。斎藤は立ち上がると、次の一枚を選び始める。その静寂が、店内に二人だけだと妙に意識させた。見えて来た仕事の終わり。ひと月前なら堪えられた感情が、溢れ出ようとしている。そんな風に葛藤を重ねていると、レコードを取り換えた斎藤が針を落とした。次はどんな曲がかかるのだろう。あまり聴かないオールディーズだといいな、なんてワクワクしている。レコード特有のノイズが入り、聞こえて来るイントロ。その一音目でザラザラした予感がし始める。これは、聞き慣れたあのジングルベル。どうせすぐに陽気なおじさんが歌い始める、あの曲だ。あれから、千裕のことなど微塵にも思い出さなかったのに、この曲は未だに心をタイムスリップさせようとする。


「今の時期に聴く曲じゃないけど、ごめんね。ちょっと気になってたんだ。この曲、好きじゃないんじゃないかなって」

「あぁ……えっと」

「いろいろあるんだろうなって分かってるんだけど、この曲って絶対かかるでしょう? ここもそうだけど、いろんなところで。毎年苦しくなっちゃうの辛くないかなって思ってて……だからって、わざわざ聴かせることでもないんだけど。僕はいい曲だと思っててね。嫌いでいて欲しくないなって」


 斎藤は、この曲を乗り越えさせようとしている。できることならば、樹里だってそうしたい。千裕とは完全に縁が切れたが、この曲がかかる時期が来ることは不安だった。克服しようと思っていたって、どうしたらいいのかも分からない。この曲を聴いたら、まだ気持ちは振れるのだろうか。それは気掛かりなことだった。そして今、図らずも分かったことは、やっぱりこの曲は千裕との楽しい時間だけを思い出させるということだ。


「この曲は……例の元彼の唯一の思い出みたいなものだったんです。どうしてなのか分からないけれど、お付き合いをしていた六年半、毎年クリスマスにこの曲がかけられてて。嫌って程に聞いたんです。だから染み付いちゃって。彼のことなんて忘れてたけど、やっぱり思い出すものですね」

「そうなんだ。彼には、何か思い出があったのかな。クリスマスに、この曲を聞いた時の思い出。どこかに二人で行った時に聞いたとか? 皆でいる時に聞いた、とか」


 そんなものあったか、と記憶を辿る。いつも考えたけど、何も思い出さなかった。だが今、斎藤が言ったことの何かが引っ掛かっている。皆で聞いたジングルベル。そんなことが昔、あったような気がした。


「あ……もしかして。ジャケットって見せて貰えます? CDも同じようかなぁ」

「はい、どうぞ」

「あ、あぁ。そうかも知れない……そうか」

「何か思い出したのかな」

「はい。前の会社なんですけどね。新卒がクリスマス会を企画する、とかいうのが会社の決まり事みたいにあって。彼は同期で。あぁそうだ。その時、私がこの曲の方がいいって言ったんだ」


 そうだった。二人じゃない、皆との思い出を辿って、樹里はようやく思い出した。

 会場のホールを飾り付けていた時、千裕の声が聞こえて来たのだ。会社でやるんだから楽しい曲の方がいいんじゃないか、と。彼が何度言っても、ムーディな物がいい、という女と揉めていた。それが、香澄だ。彼女は折れず、千裕が押し負けしそうになっていた時、樹里が口を挟んだのだ。楽しい曲の方がいいんじゃない、と。意見を求められた別の同期たちも、そうだね、とか同調して千裕の案が採用されたんだった。そうか、あの時のジングルベルだ。まだ仲良くもなかった千裕が、ありがとう、と嬉しそうに何度も言ったことを思い出している。


「多分、その時の曲がこれでした」

「そっか。きっと彼にとっては、大切な思い出だったんだね」


 そう斎藤は微笑んだが、樹里は釈然としなかった。それならば何故、という苛立ちが過ったのだ。そこまでこんな思い出を大切にしていたのなら、どうして嘘をついてまで、別の女と会っていたのか。どうして「別れようかな」なんて香澄に言ったのか。今更怒っても仕方がないけれど、腹の中がムカムカして仕方なかった。 

 今になって気が付いた、このジングルベルの意味。千裕にとって淡い思い出で、香澄には嫌な思い出を植え付けてしまった曲。全ての始まりを見つけた樹里は、ようやく全ての終わりを感じている。レコードを替えようとした斎藤に、もう一度かけて貰ってもいいですか、と声を掛けた。彼は一瞬驚いて、それから何も言わずに針を落とす。そして静かに、樹里はこの曲に耳を傾けていた。


「彼らも、幸せになれるといいね」

「そうですね……あ、でも。あの子は結婚するみたいですよ」

「へ? あの時の女の子?」

「あ、そうです」


 斎藤が目を丸めた。そりゃそうだ。樹里だって驚いたばかりだ。相手はあの真面目な同期。どんなどんでん返しがあったのかは知らない。だけれども、彼を通して香澄にもきちんと謝罪された。好きになった男が樹里ばかり見ていて気に食わなかった、と。最後は多分、女の意地だけだっただろうと思う。彼女はそこまで、千裕に恋しているようには見えなかったから。送られてきた、幸せそうな二人の写真。憑き物が取れてスッキリした香澄の顔は、今まで見てきたよりもずっと綺麗だった。今思い出しても、優しく微笑むことができる。幸せっていいですね。樹里はポツリと溢した。

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