第52話 二人だけの誕生日

 二〇二三年七月二十四日。クリスマスから、七ヶ月。斎藤のカレーが世に出るまで、あと十日ほどになった。年明けから仕事が忙しくなり、斎藤とも事務的な話をするのがやっと。一緒に行く予定だった工場見学も付き添えず、課長や他のメンバーに任せてしまったくらいだ。時々散歩に出掛ける彼と出くわしたが、それもブンタを撫でるので精一杯。一緒に行きたいと思う余裕すらなかった。

 そして今日、大事な品を届けにここに来ている。もう来るのが当たり前になった、斎藤の店に。


「こちらが完成品になります」


 そう言って彼の前に差し出したのは、ついに出来上がったレトルトカレーである。パッケージには、店の外観とあの不細工な象。斎藤の写真を入れた方が売れる、と言った女性社員もあったが、本人からやんわりと拒否をされた。自分はただの喫茶店のおじさんだから、と。


「わぁぁ……何だか感動しますね」

「そうですね。こう実物を目にすると、より実感が沸きますよね。あと少しで、これがスーパーなどに陳列されるようになります。そうなったら、また違った感情が湧くと思います」


 少年のように目を輝かせ、斎藤はそれを手に取った。ようやくここまで来たんだな。プロジェクトリーダーとして携わった初めての商品。ゴールを目前にし、樹里もようやく人心地がついた。叱咤され、自分の至らなさに落ち込んだ、苦行のような日々だった。恋なんて、している場合じゃない。他部署から課題点が挙がれば、それをクリアする。それの繰り返し。今思えば、斎藤の結婚話が聞こえてこなかったのは幸いだっただろう。何とか平常心を保ったまま、責任者としての初めての商品を送り出すことができそうだ。


「あ、そうだ。松村さん。発売日の八月四日の夜って、お忙しいですか」

「えぇと、夜ですね。確か午後は、特に大きな仕事はないので……締めくくりをして、流石に早く帰りたいなぁって感じですね」

「あの、その日。空けておいて貰えませんか」

「え?」

「あ、いや……折角一緒に頑張ったものなので、スーパーに並んでるのを見に行きません? 本当につまらない誘いなんですけど」

「ふふ。いいですね。見に行きましょうか」


 ちょっとドキドキしたけれど、こんな話も普通に対応できるようになった。彼は仕事の相手。彼もまた、そう接してくれていた。斎藤の店を選んで、本当に良かった。今はそう思っている。 


「今日って、この後戻りますか」

「いえ。ここまで来たので、帰りますよ」

「あぁ、ですよね」

「はい」

「それじゃあ、ケーキ食べませんか」


 ケーキですか? と繰り返したが、意味がよく分かっていない。もう遅いから、店の残りとかだろうか。それでも、今まで同じような時間に来て、そんな誘いを受けたことはない。樹里が疑問に思っていると、「そうです。オーソドックスなイチゴケーキです」と斎藤が笑った。ケーキの種類がどうという話ではないのでは、と思ったが、彼があまりに普通なので頭にはてなマークが並んだ。


「あ、えっと……は、はい。いただきます」

「良かった。母さんが買って来ちゃって。五十過ぎの息子の誕生日ケーキ」

「誕生日、ですか」

「あ、はい。僕、今日で五十二なんです。お恥ずかしい」


 そう言って、斎藤は困り顔でこちらを見た。樹里は驚き、パチパチと瞬きをする。多少の間を空けて、「あ、あっ。私も今日……」とおずおずと手を挙げてみた。すっかり忘れていたが、今日は樹里の三十八の誕生日だった。


「誕生日?」

「誕生日、です」

「今日?」

「今日、ですね」


 無言の静かな時が流れた。小さく掛かるレコードの音。それにハッとして、二人は腹を抱えて笑った。誕生日が同じだなんて、本当にあるんだな。運命を感じたわけじゃないけれど、心はほろほろと綻んでいく。まるで子供が流れ星を見つけた時のように、ウキウキと気持ちは跳ねた。

 涙目を擦りながら、斎藤がキッチンへ向かう。手際よく動く彼を離れたところから見ていて、樹里は立ち上がり自然とカウンターへ足を向けた。仕事ではなく客のように、斎藤がコーヒーを淹れるのを近くで見たかったのである。


「初めてじゃない? カウンターに座るの」

「初めてです。レコードも一杯あるんですね」

「父がね、集めた物ばかりなんだけどね。結構、評判いいんだよ」

「そうなんですね」


 いつもとは違うこの店を見た気がした。座る場所で、雰囲気が違う。こういうレトロな喫茶店ならではなのかも知れない。ゆっくりとした時間が流れる。微睡んでしまいそうなくらい、とても心地が良かった。


「はい、どうぞ。おじさんと二人でごめんねぇ。折角の誕生日に」

「いえいえ、嬉しいですよ。誕生日だからって、何をするわけでもなかったですから。それに、ちょっと忘れてました。今度、お母さんにもお礼言わないといけないですね」

「いいよ、いいよ。そうしたら、来年はここにホールケーキが二つ並ぶことになるよ。きっと」


 その情景は簡単に想像できて、笑ってしまう。「だから、やめよう。やめよう」と顔を歪めた斎藤は、カウンターから出ると樹里の脇を抜けて、徐に外へ出て行った。誰もいない店内を見渡し、ちょっとニマニマしている。祝われることはない予定だった、今年の誕生日。斎藤と互いに「おめでとう」と言い合うのだな。妙な感覚を覚えながら、樹里はまたケーキに視線を落とした。するとキィッと扉が開き、ガタガタと音を立てながら斎藤が戻って来る。運んで来たのは、外看板。今日はもうお終い、と言いながら。


「折角、二人で誕生日会するんだから、邪魔されたくないもんね」

「そ、そうですね」


 ここまで仕事で閉じ込めていた気持ちが、一気に噴き出してしまいそうだった。必死に閉めた蓋が、簡単に開いてしまいそうになる。ドキンと大きな音が鳴り、バクバクと心臓が煩い。それにしても、ヒロミと祝わないのだろうか。片隅でそう気にしたが、カチャンと鍵がかかると樹里は胸を撫で下ろした。

 これから、二人だけの誕生日会が始まる。コーヒーで乾杯をして、おめでとう、と言い合って。それから一口食べたイチゴのケーキ。甘い甘い、幸せの味がする。

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