第39話 ぐるぐる、ぐるぐる

「本当にごめんね。母さん、松村さんが可愛くて仕方ないみたい」

「あ、そうなんですか」

「そう。若い女の子が頻回に来ることもないからね。あれこれ聞きたがって、本当に申し訳ないよ。ごめんなさい」


 斎藤はテーブルに頭を付けて謝ってくれた。ホントお喋りで困るんだよね、と頭を掻いた彼。眉間にちょっと皺を寄せて、樹里に目を向けた。母親がいないと、すぐに乙女心が顔を出そうとする。ダメだ、と戦っている間に、あの曲は終わった。良かった。樹里は気付かれないように、胸を撫で下ろす。


「あのさ……結婚、って何回も言ってない?」

「え? あ、お母さんですか。そうですね、まぁこっそりと聞かれますね。でもそんなのよくあることですし、あしらう力は付いてますので」

「そんな失礼なことを言ってね。自分の息子が言われてたら……何とも思わないな。あ、うん。そう、あの人はそういう人なんだよなぁ。息子がそう言われてる場面に遭遇しても」

「加勢しそうですよね」

「でしょう?」


 視線を合わせて、腹を抱えた。「でもさ、俺はいいけど……他人に言うのはやっぱりやめさせないとな」と今度は真顔で言う。申し訳なさを抱えて伏せた目が、ちょっと綺麗だった。


「まぁ大丈夫です。慣れてますから」

「いや、でも……その」

「あ、あぁ。まぁそのことで傷付いた時期もありました。でも、ほら。今は仕事が幸いにして忙しいですし。大丈夫ですよ」


 明るく言ってみたけれど、彼は納得していないようだった。私どんな顔をしているんだろう。樹里は思った。辛そうに見えるのだろうか。

 もう千裕のことなど、どうでもいい。あの曲さえクリアできれば、きっと思い出すこともない。もう一人にも随分慣れた。別れたことで変わったことは一つだけ。結婚への思いが、かなり薄くなってしまったことである。三十を過ぎて千裕がずっと一緒にいたから、結婚をするものだと思って来た。だが今、そう頑張ってまで結婚をする意味が見出せない。朱莉が言ったように、仕事があって、ちょっとの癒しと美味い物があればいい。それではダメなのだろうか。


「結婚……しないとダメなんですかね」

「え?」

「あっ、ごめんなさい。斎藤さんのお母さんだけじゃなくって、私の母もよく言うんです。結婚、結婚って。結婚できないのは不幸だって。でも、それって結婚をした側の意見じゃないですか。結婚できないんじゃなくって、しないんです。そういう気持ちって、向こう側の人には分からないのになって」

「うんうん。それは分かる。僕もね、友人やらによく言われるんだ。早く結婚しろって。それでいて今度は、独身だと自由でいいよなとか羨ましがられる。子供は可愛いぞって自慢したい人間と、結婚生活の面倒なところを愚痴りたい人間といて。どちらの面も見せられてお腹一杯です」


 独身も楽じゃないよねぇ、と同意を求められる。ホント、と頷き、二人静かにコーヒーを啜った。さながら被害者の会設立の勢いである。男女の性差、斎藤との年齢差もあろうが、互いに言われていることは合致しそうだ。


「でもさ、僕ね。この間、ほら病院に行ったじゃない?」

「お母さんの骨折の件で」

「そう。あの時に初めて思ったんだけど、結婚も必要なのかなって。見合いだとかそういうことをしてまで、結婚をしたいってことじゃなくてね。本当に好きな人がいるのなら、その届を出すことの意味ってあるのかなって」

「意味、ですか」

「うん。公的に家族だって認めらえないと、面倒なことってまだまだあるみたいだから。あの時言ったじゃない? 色んな説明書き読んじゃったって。ICUには何親等まで、とか。病院によって違うみたいだけど、いざ何かあった時に、一番傍にいて欲しい人がいないのは辛いなって思ってね。あぁ勿論、そういう相手がいればだけど」


 斎藤はそう言って、空を見た。きっと今は、ヒロミのことを想っている。斎藤には、そう考える相手がいるのだ。一人、ただ仕事を頑張っているだけの樹里とは違う。それを思い知らされた気分だった。ようやく消えたあの曲が、頭の中で元気に歌い始める。樹里はスッと心を遮断した。


「あぁ、ごめん。話がだいぶ逸れちゃって」

「あ、いえ。方向を逸らしたのは私です。すみません」

「そうだ。えぇと会社に伺う件なんですけど、それって松村さんが一緒に回ってくださるんですか」

「そうなりますね。社の入口で待ち合わせをして、入館手続きを取った後、各部署へ回ろうと思います」

「分かりました。緊張しますねぇ。僕、ちゃんと会社っていうのを知らないので、何着て行ったらいいんだろう」

「それは普段通りで、構いませんよ。昔みたいに、皆がスーツで働いているわけでもないですし」

「そっか。そうなんだね」


 和やかな会話は戻って来たが、心は何一つ戻って来ない。斎藤は、ヒロミと結婚を考えているのかも知れない。その考えがグルグル、グルグルと頭の中を回り始めていた。

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