第13話 小さなお友達
月が綺麗――そう思ったら、急に泣きたくなった。
これまでは、そういう些細なこと全て千裕と話して来たから。道端に小さな花が咲いていたり、窓辺に可愛い猫がいたり。そんな小さなことを見つけ合っては、共有して微笑った。星空を見に行って、何も話さず、並んでぼんやりしたこともある。別れて最も痛手だったのは、そういう相手を失ってしまったことだ。朱莉に言ったっていいけれど、やっぱりちょっと違う。あぁぁ、もう少し別れが早ければ、こんな思い出も少なかったのに。
「……くそっ」
もう忘れた、と思い込ませたかった。でも本当は、そう簡単にもいかない。仕事が忙しく、考える間を与えずにいるから、思い出す時間は少なく済んでいるだけなのだ。六年も一緒にいたら、思い出すタイミングなど嫌でも沢山ある。美味い酒を飲んでも、仕事で良いことがあっても、千裕の亡霊はそこにあった。
『別れた男を完全に忘れるのには、どうしたらいいんですかねぇ』
徐に朱莉へメッセージを打つ。こんなことを気軽に言えるのは、今や彼女しかいない。投げやりで、救いを求めるようでもあった。くだらないことで足踏みなどしたくはないのに、思い出してしまうのはどうにもならない。
『新しい恋ですかね』
『って言ってみるけど、そう簡単にもいかないですよねぇ』
やはり、抹消するには上書きか。分かってはいたが、新しい恋などどう始めたらいいのか。婚活を始める? 今更、どうやって出会うものなのかも分からない。
「あんな男……忘れたい」
思ったことが、つい口を出て溜息を吐いた。苛々して、おでこを掻く。眉間に皺が寄っている。折角、嬉しいほろ酔い気分だったはずなのに。
「あれ?」
「あっ……えっと、こんばんは」
「こんばんは。お散歩ですか」
マンションに帰ると、丁度ブンタが出て来た。飼い主の男性が、何だか気不味そうな顔を見せる。今のイライラした顔を見られたか。思わず目を逸らしたが、ブンタはルンルンと尻尾を振り、スッとお座りをする。この間と同じ体勢だった。撫でろ、ということだろうか。
「あの……今日も撫でて、大丈夫ですか」
「あ、すみません。もう撫でられる気満々ですよね。お恥ずかしい」
申し訳ない表情の彼と目を合わせ、樹里はニコッと微笑んだ。私も癒されるのでありがたいです、と。すると彼は、ホッとしたように見えた。丁寧に整えられた髭が、大人の男という感じがする。彼はきっと、上の方のファミリータイプの部屋に住んでいる人だろう。穏やかな奥さんと可愛い子供がいるような、温かい家庭がとてもよく似合う。
「ブンタ。今日もパパとお散歩? いいねぇ」
ハッハッと息をして、ブンタは気持ちよさそうな顔をする。クリクリした嘘のない瞳。何だか、永遠に撫でていられる気がしてしまう。
「すみません。ありがとうございます。良かったな、ブンタ」
「私の方こそ、ありがとうございます。ちょっと仕事で疲れてたので、癒されました。ブンタ、ありがとうね」
樹里の方を真っ直ぐに見て、ブンタは尻尾をパタパタ振った。さぁ行くぞ、と声が掛かると、ブンタはきちんと飼い主の脇に立つ。とっても利口だと思った。それでは、と背を向けた彼ら。樹里の胸も少し温かくなった気がする。何だか、小さなお友達が出来た気がしていた。
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