第7話 黒にしか見えないグレー
「朱莉? 終わった、終わった」
「お疲れ様です。どこにいます? 樹里さん捕まえようと思って、とりあえず家を出たところなんですけど」
「捕まえるって、何」
朱莉は何かを察したのだろうか。どうだった、とは決して聞かない。ただケラケラと笑っている。それがまた清々しかった。
「あ、朱莉の最寄りまで行くよ。もう駅だし」
「本当ですかぁ。やった。じゃあ、着いたら連絡ください」
「了解」
電話を切って、無表情でホームに立った。彼女のいる駅まで、電車で十分弱。樹里は端々の筋肉まで意識を滑らせ、感情を出さぬように努めた。それが少しでも緩んでしまったら、きっと泣いてしまう。あんな男だって、六年も付き合って来たのだ。悲しい、悔しい。どうしてもそんな感情は湧くのである。
ホームに入って来る電車が起こす風に乗って、頭の中にジングルベルが鳴った。思い出されるあの陽気な声に眉間の皺を寄せ、耳にイヤホンをグググっと差し込む。流すのは、いつもなら聞かないような盛大なオーケストラだ。無理矢理にでも気持ちを他に向けなければ、立っていられない気がした。彼を信じていたのに、なんて女々しく項垂れていたくない。千裕とは、終わった。現実がもう変わることは、絶対にない。ほくそ笑んだ香澄の顔が過る。思わず、チッと舌打ちしていた。あんな男くれてやる。二人で勝手に幸せにでもなればいい。苛立ち、つり革を握る手に力が入る。グッと両足に力を入れ、指先も力強く携帯をタップしていた。あの同期に礼を言うためだ。
『色々教えてくれてありがとう』
『もし千裕に何か聞かれても、知らんぷりして良いからね』
『そしてめでたく、私たち別れました』
『本当にありがとね』
送信して、すぐに既読になる。何かが起きていると気にしていたのかも知れない。申し訳ないなと思った。
『そうかぁ』
『でも千裕には悪いけど、樹里にとってはそれで良かったと思うよ』
『まぁお疲れ』
淡白にそう返って来たメッセージに首をかしげる。樹里にとってはそれで良かった、とはどういうことだろうか。聞き返そうかと思ったが、樹里は携帯をバッグの奥底に仕舞い込んだ。今更確認をしたって、どうせ怒りが増すだけだ。電車の揺れに神経を傾ける。余計なことは考えない。とにかく、朱莉に会うまでは。
待ち合せの駅に電車が入る。堪えている感情が、聞いて欲しくて今にも弾けそうだった。ドアが開いていい女みたいに上品に降りるが、気は急く。それを隠しつつ、何食わぬ顔をして朱莉に電話をかけるのだ。改札を指定され、向かう足は徐々に小走りになった。
「樹里さん、やだ走らなくたっていいのに」
「あら、やだ」
「私に早く会いたかったんですねぇ」
「あぁそうなんだよねぇ」
「棒読み、棒読み。心が籠ってないですよ。もう」
早々にキャッキャとはしゃいでみる。そこまで砕けた関係ではないのに、まるで昔からの友人のようだった。心はフゥと一息吐いた。大丈夫、泣いたりしない。
「あ、樹里さん。お昼ご飯って食べました?」
「お昼? 朱莉、もう十七時近いけど」
「えぇ、そんな冷たいこと言います?」
「いや……白黒付いたらお腹空いたな」
「お酒も飲みたいけど、ご飯ですよね。よし、何がいいかなぁ。美味しい物がいいですよね」
こっちです、と誘導する朱莉は嬉しそうだった。樹里は、朝からほとんど食べていない。喉を通る気がしなかったのだ。この子は恐らく、それを察しているのだろう。
「あ、今日はカレー屋さんだ。ランチもまだやってる。カレー食べません? ここ、シェアレストランって言うんですかね。日替わりでお店が変わるんです。同じ場所で色んなものが食べられるから、よく来るんですよ。確かこのお店、キーマ美味しかったですよ」
「そうなんだ。いいね、カレーにしよう。仕事にも役立つだろうし」
「仕事って。もう。まぁそうですよね。企画部だと」
「もう癖になってるよ。次の企画に使えるかなぁって、ずっとリサーチしちゃう。休まらないわよねぇ」
仕事の話でも何でもいい。下がりっぱなしだった口角を持ち上げて、笑っていたい。二人は少しはしゃぎながら、店のドアを開ける。そこはシンプルな家具、明るめの音楽。洒落たカフェのような空間だった。
「いらっしゃいませ。二名様ですか」
「はい」
「こちらへどうぞ」
ニコニコ接客をしてくれるのは、まだ学生のような若い女の子だった。キッチンを覗けば、忙しく動くキャップを被った男の人。若夫婦だろうか。こういう所で腕試しをして、店を持つ夢でもあるのだろう。きっと楽しいんだろうな。好きに他人の人生を思い描いたくせに、心は勝手に羨んでいた。
「樹里さん、何します? あ、でもちょっとくださいね」
「うんうん、いいよ。じゃあ私にもね。その方が役立つし」
「あぁまた仕事? 今日は美味しい物でお腹を満たして、新しい明日を考える日です。私はそれの見届け人」
「はい、その通りです」
ふふふっと笑った二人は、仲良くメニューを覗き込んだ。サークル活動の時も、分けられる料理はシェアをする。色んな味を楽しみたいね、という皆の希望である。食品メーカーに勤めている自分たちの仕事のため、だとかではない。単純に、美味しい物を食べたいし知りたい。そういう欲望のためだ。
可愛らしい、手書きのメニュー。そこに描かれたちょっと不細工な象が、妙に印象に残る。樹里はキーマ、朱莉はチキンを頼んだ。見た限り、欧風でもなくインドよりでもない。日本人のイメージするカレーだろうか。キッチンからご主人の、ヒロミ、と優しい声がする。妻を呼んでいるのだろう。幸せそうだなと目を細めつつ、樹里はキリッと朱莉に向かい直した。
「さて、朱莉さん。ご報告がございます」
「は、はいっ」
食事が来る前に、結論だけは言っておこうと思った。樹里が何も言わなければ、朱莉は恐らく聞いて来ないだろう。当然、気になってはいるだろうが。
「えっと、別れて来ました。で、もう二度と会わないって、言ってやりました。以上です」
「はい。お疲れ様でした……って。いやいや。結論は分かった。まぁそうだろうなぁとは思ってました。けど、今回に関してはその原因が問題であったわけで。解決は出来なかっただろうけど、納得は出来たってことですか」
周りを見渡してから、朱莉が身を寄せる。そして、子供のこと、と囁いた。
香澄の中にいるという命が本物なのか。それは千裕とのことなのか。本質を見極めなければいけなかったかも知れない。でも樹里にとっては、そんなことどうでもよくなっていた。嘘を吐いてコソコソ会っていた時点で、もう終わりにする以外なかったのだ。
「結局、彼は認めなかった。誤解だって言うばかりで」
「いいの? それで」
「うん、うん。いい。もう、それでいいの」
朱莉は腑に落ちないようだったが、樹里はこの結論に納得している。
疚しい関係ではなかったとしても、千裕が嘘を吐いていた事実は変わらない。同僚と飲みに行ったことを咎めたのではない。嘘をついてまで、二人で会っていたことに嫌気が差したのだ。しかも相手は、香澄。彼が言うように何もないのなら、香澄と飲みに行くと堂々と言えば良かっただけだ。けれど、彼はそれをしなかった。白か黒かで言ったら、千裕は限りなく黒に近いグレー。ほぼ黒にしか見えないような、グレーなのだ。
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