第28話 隣の扉

『朱莉、あの店見つけた』

『隣の部屋のあの人。カレー屋さんだった』


 そう送ったのは、日曜日の午後になってからだった。色んな感情が渋滞していて、泣くでもない、笑うでもない、ただぼぅっとしている。明確な恋心を抱くよりも先に、ぼんやりと輪郭線すら描く前に、終わってしまった。何とも言えない心の穴。力なく笑う以外ない。恋だったと思えても、恋だった実感すらない。そんな短い、あっさりとした恋だった。


「あぁ、朱莉」


 話が読めず、メッセージを打つのが面倒にだったのだろう。送信してすぐ、朱莉の名がスマホに表示された。出なくちゃ、と思うのに、なかなかそんな気になれないでいる。それでも、着信が鳴り止むことはなかった。


「もしも……」

「どういうこと? 何があった」


 ようやくタップすると、樹里の言葉の上から朱莉の声が被さった。その反応は正しいな、と他人事のように思う。彼女が気になっているのは、恋の話だろうか。それとも、探していたカレー屋の主人が隣人だった驚きだろうか。「あぁ、うん。驚くよねぇ」と発する樹里の声は、ひどく張りがない。


「隣人ってことは……だよね」

「まぁ、そうだね。ブンタの飼い主」

「普通に話をしてて分かった感じ、ではなさそうだね」


 そうだね、と認めたが、言葉はスルスルと繋がっては来なかった。辛くとも、朱莉には全て話そう。千裕の件で一緒に怒って、誰よりも寄り添ってくれた。それにどれだけ助けられたか。きっと今だって、心配してくれているのだ。樹里は、重たい口を開いた。


「朱莉と別れて、家に帰って。クリスマスだなって、ちょっと落ち込んでた時にね。彼が訪ねて来たの。お母さんが倒れてしまって、ブンタを預ける場所が急だから見つからない。申し訳ないけど、餌だけでも頼めないかって」

「ほぉ。凄い急展開。それで、引き受けたんだね」

「そう。で、ブンタが不安そうだったから、そのまま彼の部屋で様子見てたの。朝ごはんもあまり食べなくてね。大丈夫だよってしてる間に、寝ちゃったのよ。そうしたら彼が帰って来て。お礼にご飯作るから食べてって」


 事実を時系列に沿って説明する。そこに至る自分の感情は、今は置いておきたい。うわっ、とか、うんうん、だとか言いながら、樹里の話を聞いていた朱莉。そして、パーツが出揃ったのだろう。出て来たのがあのカレーだったってわけか、と先回りして言った。なるほどねぇ、とか付け加えながら。


「見た目が似てるカレーが出て来て。横にプリンも並んだ。否が応でも思い出してはいたんだけどさ。普通は、食べたことのある味だなんて思わないじゃない」

「そうだね」

「そうしたら、彼が言ったの。朱莉と行ったあの日に、私だって気付いてたんだって。泣いてたから声を掛けられなかったって」

「そっか。なるほどね。うんうん。それで、樹里ちゃんのその落ち込んでる感じは、好きだったってことでいい?」


 ストレートにぶつけて来るのが朱莉だ。一瞬たじろいだが、そうだったみたい、と素直に認めた。彼を知りたいと思ったことも、正直に話す。朱莉はもちろん、それを茶化すことはなかった。


「それで、なんで落ち込んでるの。好きだって分かって、これからなんじゃないの?」

「え、だって。忘れちゃった? あの店には、可愛らしい女の子がいたじゃない。ヒロミって呼ばれてた」

「ヒロミ……」

「プリンを運んで来てくれたお姉さんよ」


 そこでようやく、朱莉が「あぁいたね」と言った。本当に忘れていたのだろう。多分、ぼんやりとも顔を思い出してはいない言い方だった。


「結婚はしてないって言ってたから、彼女なんじゃないかな」

「あぁ……そういうこと、か」

「そ。あ、好きかも。なんて思った瞬間に、失恋したようなもんだよね」

「えぇ、でもさぁ。片想いしてる分には問題ないんじゃない?」

「向こうに彼女がいても?」

「え? だって、彼女でしょ。別れるかも知れないじゃん」


 あまりにサッパリと言うもんだから、呆気に取られてしまった。でも、朱莉の言っていることは正しい。勝手に好きでいることは、何の問題もない。ただ、実ることのない想いを募らせるという不毛さが、いつまでも拭えないだけである。


「朱莉の言うことは分かるよ。でも、結果は見えてる。だから膨らまさない程度に、いつも通りにしてられればいいかな。それに、あのカレーは美味しいかったでしょう。今は実家の喫茶店で出してるみたいなの。仕事でもちょっと見に行きたいし」「出た。また仕事?」

「でも、美味しかったじゃない」

「まぁそうだけどさぁ」


 朱莉は不満気だった。今きっと口を尖らせているのだろう。だが樹里は、彼女に話すことで、自分の失恋の行き場を見つけていた。だってもう、十分に大人だ。こんな時の冷静な対処など、香澄の件と比べれば容易いことだった。


「で、もう一個気になったんだけど」

「はいはい。何?」

「クリスマスで落ち込んだって、何の話?」

「あぁ……それは」


 触れられたくないジングルベルが、また陽気に歌い出した。頭を振ったくらいじゃ止まってくれない。そして同様に、朱莉もまた諦めてはくれない。クリスマスって楽しい日じゃん、と言いながら、樹里が話すのを待っている。


「朱莉、外出られる?」

「出られますよ」

「よし、じゃあ五反田のあそこ行こうよ。サークルで行ったところ。あそこなら、もうやってるでしょ」

「了解。じゃあ、すぐ出るよ。樹里ちゃんも急いで出てよね」

「はいはい。じゃあ、駅でね」


 電話を切って、すぐに鏡の前に立った。気の抜けた、酷く不細工な顔がそこにある。パシンと両頬を叩いて、樹里は一気に化粧を仕上げた。今から行くのは、大衆居酒屋のような店だ。薄化粧で構わない。最低限の荷物を詰めて、樹里もすぐに部屋を出る。隣の扉を横目で見ながら、駅へと急いだ。

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