第36話 願い
「ジャズ喫茶羽根のご主人、斎藤さんからお返事をいただきました。今回の件、お受けいただけるとのことです」
ミーティングルームの視線が、全て樹里に注がれる。緊張していた目が、徐々に喜びに変わるのを見た。パラパラと拍手が起こって、場の雰囲気が和み始める。ここまでの頑張りが報われた瞬間だ。隣から大樹が、良かったですね、と音が鳴るか鳴らないか分からないような拍手をくれた。樹里も、穏やかに微笑んだ。
斎藤からの連絡は、だいぶ遅くになってからだった。結局酒を飲む気になれず、長めに風呂に浸かり、早めにベッドに入った後のことだ。ただぼぅっとしていたところに、携帯が鳴ったのである。
『夜分にすみません。お仕事の件ですが、ありがたく受けさせていただきます。よろしくお願いします。斎藤』
そんなメールが届いた。日を跨がないうちに返事をしたかったのだろう。『ありがとうございます。改めて後日、ご挨拶に伺います。松村』と返し、携帯は放り投げた。感情は、複雑だった。嬉しいはずなのに、僅かな乙女心が溜息を吐いた気がしたくらいだ。そのまま寝付けなかったのは、目の下のクマが物語っている。
「さぁ、これから本格的に動くことになります」
ホッとしたメンバーの顔が、樹里の言葉にピリッとし始める。これから皆は、各部署とのやり取りをしながら、商品を作り上げていくのだ。樹里の会社では、次の部署へ丸投げはせず、このプロジェクトチームが中心になって動く。その責任者である樹里は、監督のようなものだろう。初監督商品が斎藤のカレー。思い出深いものにはなりそうだ。
「各部署への担当の割り振りは、今表示されている図の通りです。何か意見がある場合は、えぇと、こっそり教えてください。きっとここで発言しにくい人もいるでしょうから」
色んな人の色んな感情を慮った。今のところ、顔に不満が出ている人はいないようだ。良かった。まだ未熟なリーダーは、いちいち皆の反応を見てしまう。そればかりに気を取られてはいけないよ、と課長にはよく言われているというのに。
「それぞれ報告は、密に行ってください。プロジェクトのページで情報を共有し、皆それを踏まえながら動きましょう。不安なこと、相談事があれば、何でも話してください。よろしくお願いします」
メンバーはこの後、割り振られた部署に各自挨拶に行くことになっている。組になった人同士で話しながら、散会していく。できるだけ年齢層はばらけさせたつもりだ。反りの合わない人同士の組み合わせも避けたし、きっと大丈夫だ。どうか上手く回りますように。それから、無事に終われますように。私的感情を少々混じらせながら、今は願うだけだった。
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