第33話 寂しいけれど、それが現実

「いらっしゃいませ。あれ?」


 扉を開けると、ノリのいいジャズがすぐに聞こえて来た。こちらを見た斎藤と目が合い、こんにちは、と微笑み深く深く頭を下げる。これは仕事だと、改めて心に線引きをしたのだと思う。


「二人共、知り合いだったの? 前に来てくれたよね。えぇと」

「あ、平野です」

「そう。平野くん」


 客として来ていただけだと言っていたが、名前まで名乗っていたのか。この勢いでは、二度目の来店だとしても、恋の相談でもしてそうな雰囲気である。樹里の頬が、僅かに引き攣った。


「松村さんは、初めてだね。いらっしゃいませ。ここが僕の店、というか実家ですね」

「あ、実家」

「そう。上が実家なの」

「そうだったんですね」


 ということは、あの日の病院も近かったのだろう。この店は、家から徒歩でも来られる距離だ。すぐに駆け付けられたのなら良かった。そう、人知れず安堵する。


「あ、平野くん。もしかして?」

「あぁいえ。樹里さんは上司です」


 嫌な予感が的中した気がして、大樹を睨み付けたい気になる。これから交渉をしようという相手に、プライベートな話ばかり持ち出されたくない。それが例え斎藤だとしても、だ。


「斎藤さん。本日は仕事で参りました」

「仕事、ですか」

「はい。アポを取らずに伺いまして、申し訳ございません。少しお時間をいただけませんでしょうか。お忙しいようでしたら、お手隙の時間に再訪いたします」

「あぁ、えっと。今でも大丈夫です、よ?」


 アポを取ってから来ようかとも思ったが、最近は悪ふざけと捉える店もあると聞いた。先ず顔を見せて挨拶をしてから、相手に合わせるつもりで出て来ている。昼食とカフェタイムの合間を突いて来たのが良かったか。ありがとうございます、と頭を下げ、斎藤が手招いた席に大樹と腰を下ろした。


「お忙しいところ、お時間いただきありがとうございます。改めまして、こういう者です」

「頂戴します」


 樹里がスッと差し出した名刺を、斎藤が受け取る。ちょっと震えた手に気付かれたろうか。優しい顔でいようと決めたが、頬の強張りを感じる。視線を落とし、樹里は細く息を吐いた。大丈夫、上手くいく。そう言い聞かせて、明るく顔を上げた。二人の名刺をテーブルに並べ、斎藤はそれをじっくりと見つめている。


「僕、使ってますよ。スパイスとか。あぁ……そうか。だから、カルダモン」

「カルダモン?」


 即座に反応した大樹を無視して、「そうなんですよね。つい仕事柄」と笑った。彼の部屋でカレーを食べた時のことだ。つい零したスパイスの名を、彼は覚えていたのか。普通の人は、あまり口にしないのかも知れない。今後活かされる気もしないが、胸にしっかりと留めた。


「へぇ、そうかぁ。あぁ、えっと。それで……? お仕事の話っていうのは、僕にですか」

「はい。資料を作って来ましたので、目を通していただければと思うのですが」

「資料、ですか。難しい話です?」

「あぁ、いえ。端的に申しますと、弊社の『隠れた名店の味』というプロジェクトで、こちらのカレーを商品化させていただけないか、というお話で参りました」

「商品化?」


 斎藤は目を丸めて、樹里を見た。真っ直ぐに向けられた瞳に、蓋をして来た感情がドクンと動く。奥二重の切れ長の目が、何度かパチパチと瞬きをした。


「えぇっ。いや、僕はカレー屋じゃないし。元々は小料理屋でしょ。それに今は喫茶店。カレーの勉強なんて、まだまだだし。いやぁ」

「斎藤さん。私は、あなたのカレーはとても美味しいと思っています。強過ぎないスパイス。どこか家庭の味のようでいて、そうでない。食べやすくて、ちょっと癖になるような、優しい味です。私は……その味に助けられましたから」


 大樹が隣から視線を寄越すが、樹里は気付かない振りをする。あまり突っ込まれたくない話だ。それに、今は邪魔されたくない。早いうちに斎藤を落としたいのだ。これはただ、仕事として。


「商品化された時のギャランティの割合などは、こちらに記載して参りました。それから、商品化のイメージも付けてあります。お店のお写真を載せる場合、斎藤さんのお写真を載せる場合。それから……あの象を載せる場合の三種類作ってまいりました。ご参考になればと思います」

「象って何ですか?」


 黙って聞いていた大樹が、堪え切れず質問を投げかける。後で、と小さく制して、樹里は話を続けた。


「当然、ご両親とのご相談も必要になるかと思います。この店の名で出すことに、ご抵抗があるかも知れませんし」

「うぅん、確かにそうですね」

「弊社としましては、前向きにご検討いただけると幸いです」

「分かりました。では、少しお時間いただいてもよろしいですか」

「はい。そちらに社用の携帯番号が記載してありますので、何か問い合わせ等ございましたら、いつでもおっしゃってください」


 樹里は、キリッとした笑顔を向けた。「あぁ、なるほど。分かりました」と斎藤は答える。に触れられずに済んで、樹里は胸を撫で下ろした。これはプライベートではなく、仕事なのだ。斎藤もそれを察してくれたのだろう。

 あれから、斎藤と連絡を取ることはない。携帯に残された彼の連絡先。何か送ってみようと思っても、それほど親しくない彼との話題も見つからなかった。急に、月が綺麗ですね、と送るのも変だ。樹里はただ、それを眺めるしかなった。それに斎藤は、樹里の連絡先を消してしまったかも知れない。もう連絡を取る必要のない人。そう思われている可能性もある。寂しいけれど、それが現実だった。

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