第3話 私の誕生日

「さっきの……見てましたよねぇ」


 朱莉は、樹里を下から覗き見る。あぁ……えっと。上手い返しも思い浮かばず、ただ困惑しているだけになってしまった。


「ホント最悪でしたよぉ。まだ三回目のデートだったのになぁ。あ、でも。そのくらいで分かって良かったのか。私も浮かれてたんだなぁ。ちゃんと相手を見られてなかったかも知れない」


 今起こった出来事を、まるっとなかったことにするつもりはないらしい。更には、原因が相手だけだったとも思わず、自分にも非があったと考えている。唇を噛み、悔しい気持ちが透けて見えた。そんな彼女に、どんな言葉を掛けたらいいのか。ちっとも思い浮かばない。「きっと他にいい男いるわよ」なんて陳腐なことすら、今の樹里には簡単に言えそうになかった。


「奥さんが妊娠中なのに、遊んでる男って最低だと思いません? 分かってないんですよ。これから父親になるんじゃなくって、もう既に父親だってこと。あぁもっと言ってやればよかった」


 生まれる前から、父親になる。彼女の言うことはもっともだ。よく、男は何も変わらないから分からない、なんて聞くが。例えそうだとしても、身重の相手を思い遣り、寄り添う優しさは必要だろうと思う。中には全くそれもせず、堕胎を命令するような男だっているのが現実だ。揚々と前へ進む朱莉の隣で、樹里の心は重たく沈んでいった。


「え、やだ。樹里さん。大丈夫ですか。私、変なこと言いました?」

「あ、ううん。ごめん、ごめん。気にしないで」

「そうですか? あぁぁ。もう本当に許せない」


 奥さんのこと何だと思ってんだ、と朱莉は口をへの字に折り曲げる。さっきの男――家庭を大事にしなかった男への怒りだ。ブツブツと言っていることは実にごもっとなのだが、正直言って樹里は驚いている。朱莉は、外見だけでチヤホヤされるタイプだ。あぁ香澄のように。だからつい、『この私が何でこんな目に合わなきゃいけないの』とか考えるのではないか。どこかでそう思っていたのである。


「樹里さん……あのね。私、学生の頃、太ってたんですよ。顔なんて真ん丸で」

「へ? そうなの?」


 意外だった。昔から、スラッとした体型なのだろう。運動神経も良さそうだし、太るなんて縁遠い人間だと思っていた。驚きを隠せないでいた樹里に、朱莉は両手で顔の脇に丸を作り、こんなに丸かったの、とお道化る。今のスタイルからは、到底想像できなかった。


「外見なんて気にしなかった。子供の頃は真っ黒に日焼けして、男の子によく間違えられたし。大学で東京に出て、バイトの賄いが美味しくて。それで真ん丸になって。でも、美味しい物があるんだもん。食べるじゃないですか」

「それは、まぁそうね」

「ですよね。だけど、あまりに太り過ぎて。好きな人に笑われて。ムカついたので、痩せて見返してやりました」


 彼女の人生はバイタリティに満ちている。それはとても素敵なことで、魅力的だ。


「痩せて。メイクもちゃんと覚えて、勿論仕事だって頑張った。それでも、いつも恋は私からなんです。冷やかしで声を掛けて来る男はいましたけど、そんなの本気じゃないですもんね。でも、彼は違った。紳士的に誘ってくれた。私をちゃんと見てくれる人がいるって」

「嬉しかったんだね」

「うん。本当に、本当に嬉しかったのに……あれだよ?」

「あれねぇ。どうしてあんなことになった……ごめん。無神経な質問ね。忘れて」


 思わず言ってしまい、自分を恥じた。会社からも近く、あんなに聴衆が集まってしまう場所で、どうしてあんな喧嘩になったのか。確かにそう思った。いくら顔見知りとは言え、プライベートだ。無神経に聞いていい話ではない。あぁこれでは、さっきの野次馬たちと何も変わらないじゃないか。


「あぁ、いいんです。いいんです。寧ろ聞いてくださいよ」


 あっけらかんとそう言う朱莉の長い髪が揺れ、剥れた子供のような顔が見える。表情が豊かで、人を惹きつける力があるのが彼女だ。部署も違い、仕事で会うことはほぼない。サークルの時にしか会わない樹里にも、こうして壁を作らず、妹のように甘え、スッと懐に入る。羨ましい才能だった。


「待ち合わせ場所で外してたんですよ、指輪を。信じられないですよね。なので速攻で問い詰めました。すぐに聞かないと、はぐらかされちゃうから。そうしたら、です」

ね」

「そう。でね、子供がいるのか聞いたんです。そうしたら渋々答えたのが、まだお腹の中って。もう我慢できませんでした。だって今は、奥さんを労わって、寄り添う時間でしょう? 二人で親になる時間じゃないの」

「あぁ……そうだね。多分」


 朱莉の言うことに、たいして応じられない情けなさを感じる。友人が親になっていくのを遠巻きに眺めてはいたものの、出産のことをそれほど深く考えたことがなかった。子供が出来ると、一体どう思うのだろう。自分がどんどん変化してしまうことに不安を覚えるだろうか。きっと、嬉しくて、楽しいだけではないのだろう。

 香澄もそんな時期なのだろうか。


「何で結婚しちゃうんだろう、あんな男と。結婚生活が夢に描いた通りに行くとは、私だって思ってないですよ。でも、あんな奴がお父さんになるなんて許せない。今の生活をちゃんと見つめないで、逃げてるんですよ」

「そうだね。結婚も、夢や希望だけじゃないはずだもんね」

「うんうん。結婚の話とか友人としてもね、結婚式がしたいって言うんですよ。でも、それって一瞬で終わるじゃんって。綺麗なドレスが着たいなら、私は一人で写真を撮りに行きます。結婚なんて望まない。仕事があって、ちょっとの癒しと美味い物があればいいです」


 朱莉はきっぱりとそう言い切った。彼女の目に迷いはない。傷付いた後の強がりではなく、本当にそう思っているのだと思った。朱莉は決してオブラートには包まない。今は、それがひどく心地よかった。


「ところで、樹里さん。何かあったでしょう? 大丈夫ですか」

「あ、うん」

「仕事のことですか。駅通り過ぎてるのに気付かないほど、悩むなんて」

「あぁ……そう、だね」


 急に自分へ矛先が向けられ、樹里はつい口籠った。

 一時間ほど前に自分に起こったこと。簡単に言うことも出来ず、だからと言って上手く誤魔化すことも出来ない。そのくせ本音では、誰か聞いて欲しいと思っている。実に面倒くさい生き物だ。一人で答えを出すことに不安で、出来るわけもないのに、先延ばしにしてしまいたい。不安で、怖くて、逃げてしまたいのだ。そんな話を友人に相談出来るのだろうか。幸せな家庭を築いているような友人たちに。

 朱莉は、そんな樹里を心配そうに覗き込む。まぁ生きてりゃ色々ありますよねぇ、と。仕事ではないと察しているようではあるが、深く問うようなことはしない。あぁこの子はきっと、本心しか言わないだろう。恐る恐る、樹里は口を開いた。


「私、付き合って六年になる彼氏がいるんだ。前の会社の同期で。すごく優しくて、みんなにも好かれているような人で……」


 笑顔の千裕が思い浮かぶ。ニコニコと目尻に皺を寄せ笑う顔だ。会いたい、そう言ってくれる。無理しないでね、と気遣ってくれる。そんな千裕が好きであるはずなのに。今はその気持ちすら、揺らいでいる。


「今日ね、急に電話がきたの。私たちと同期の子から。話があるんだけど、会えないかって」

「女ですか」

「ん、そう。女。ばっちりとマスカラを塗って、何があっても指先まで綺麗に整えているような」


 だいぶ憎しみが籠っていた。香澄の甘ったるい声が頭に過って、苛立ちが蘇ったのだ。


「あぁ……そういう」

「そういう?」

「別れてくださいとか言われたんじゃないです?」

「あ、うん。そうなの。そう言われた。アイスコーヒーのストローをクルクルしながら」

「チヤホヤされるタイプの女がしそうなことですね。私に振り向かない男を奪うみたいな」


 朱莉がそう言うのも変な感じがしたが、今日はっきりと分かった。彼女たちは全く違う考えをしている。チヤホヤされたとしても、朱莉は気にも留めないだろう。逆に、香澄はそれに縋って生きるタイプである。


「で、その女は何て」

「あ、うん。彼の子供ができたから、別れてくれって」

「子供ができた? 何か証拠見せられました?」

「エコー写真と彼が寝てる写真。多分、彼女の部屋でね」

「彼だけ?」

「そう、彼だけ」

「合成の可能性とかもあるんじゃないですか」


 そうなんだけど、と言い淀んだのは、自信がなかったからだ。千裕は、酒が弱いくせに飲みたがる。それで家に帰れず、分かっている同期は適当なホテルに置いて行く。どこだか分からない、と泣きつかれたこともあった。そういう過去があると、可能性はゼロではないのだろう。

 ただ、どれだけ酔っていても一線は越えない。そんな馬鹿なことは、決してしない。そう信じたかった。


「確か……エコー写真も、偽造されたりすることがあるらしいですよ」

「そうなの?」

「詳しくは知らないですけど、聞いたことがあって。だからと言って、もう一度確認するのは修羅場ですよね。あぁでも、このままでもダメかぁ」

「そうだよね。覚悟はしてるの。春には生まれるって言われると、先延ばしにも出来ないから」


 軽くそう言ってみたものの、本当に覚悟はあるのだろうか。まだそう言い切れずに、ウジウジした感情も持ち合わせている。そもそも覚悟があったのなら、すぐ千裕に会って問い質しただろう。でも、樹里にそれはできなかった。もう三十七歳。この恋を失くしたら、次のチャンスはあるのか。一人でも生きていけると腹も括れず、朱莉のように、結婚を望んでいないとも言えない。千裕を失くすことは、ただ不安でしかなかった。


「春か。予定日とか聞いたんですか」

「四月の十六とか言ってたな」

「四月十六日」


 復唱した朱莉は、何か検索し始める。その細い指先をぼんやりと見つめた。このままじゃいられない。事実なのかは、確認しなければいけない。このまま、二人の未来を描けるはずがない。ニコニコと笑顔で指輪を見られる? 幸せだなって、思える? 樹里は何度も自分に問うた。

 けれど全て、答えはノーだった。


「えぇと。今、五週くらいみたいですね。まだ外からじゃ分からないかぁ」

「そうだね。いつもと同じだったと思う」

「それから……疑惑の日は、先月の二十四日あたり。彼氏さんどうでした?」

「二十四日? え」


 樹里は言葉を失くした。またネックレスに触れる。心臓がドクンと跳ねて、一気に煩くなった。頭がクラクラする。朱莉は、ほらここ、と樹里に画面を突き出した。その先に書かれた七月二十四日。


「それ、私の誕生日、だ」


 樹里はそう言って、朱莉を見つめ返した。

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