第49話 もし、彼が結婚してしまったら

「無理はしないで」


 斎藤の言葉に、樹里は頷いた。悲しいことがあったわけでも、悔しいことがあったわけでもない。恐らくこれは、全てが終わった安堵の涙だ。どうして泣いているのか、自分でもよく分からない。頑張ったね、と彼が言ってくれたことで、フワッと緊張が解けたのだと思う。


「いろいろ、大変だったよね」

「……そう、ですね。すみません、お見苦しいところを」

「いやいや。そんなことない。何があったかは分からないけれど、僕はね、松村さんは頑張ったって思ってるよ。その前にも、きっと嫌なことがあったんだよね。でもね。彼がどんな男でも、幸せだった思い出だって沢山あるでしょう。一緒にいた時間の全てを否定しなくていいからね。今は、いろんな感情があると思う。だから、泣いたっていいよ」


 ただ優しく、彼はそう言った。

 千裕と別れて、初めは落ち込んでばかりだった。斎藤へのフワフワした想いを抱く前は、ずっと下を向いて生きていた気がする。他の女との子供ができたという、最悪の裏切り。その話が例え虚偽であっても、千裕がはっきりと否定しない限りそれは真実でしかなかった。そもそも千裕が、嘘をついまであの子と会っていたことは事実だ。それは何度忘れようとしても、チクチクと胸を刺激した。それが、ようやく全部終わったのだ。清々しいはずなのに、まだじわじわと涙が湧いている。


「僕もね、裏切られたことがあるんだ。もう二十年以上経ってるから、昔のことだって笑えるけどね。そんなことがあってすぐは、僕だって辛かったよ。状況は同じじゃないだろうけれど、好きな人に裏切られることは堪える。些細な事だって、嘘を吐かれたら傷付くからね。でもね、無理をして忘れようとはしないで。自然に忘れられた時、きっと笑い話にできるから」


 ね、と斎藤が笑った。この話はきっと、以前彼の母が言っていた話だろう。匡はだまされやすい、というアレだ。思い出したくないであろう過去を話し、隣に座っていてくれる。その優しさに触れ、視界が少しずつ落ち着いていく気がした。ぼぅっと眺めた空は、今にも雨が降りそうな重たい雲が広がっている。


「結婚、すると思ってたんです。彼とは長く一緒にいて、指輪を一緒に見に行こうなんて、ようやく言ってもらえたところでした。そんな時、彼女に彼との子供ができた、なんて言われて……まぁ、結果的には嘘だったんですけど。でも、それを知った時はショックで」

「子供、か。そうか。それは辛かったね」

「へへっ……そうですね。なので……斎藤さんのお店で泣きました。それからは、朱莉ができるだけ連れ出してくれて。歯を食いしばっていたのは、僅かだった気がします。長く一緒にいたから、時折思い出すのは仕方なかったですけどね」


 仕事が忙しかったのは、幸いだった。家に帰るのも遅くなり、あっという間に眠りについた日が多かったから。それでも残暑の頃は、グッと踏ん張っていた気がする。斎藤と話すようになるまでは。彼とブンタは、樹里に自然な笑顔を思い出させてくれた。恋だとかではなく、単純に樹里にとって救いだったのだと思う。


「さっき彼と話して、別れたことに後悔はなかったですけど……彼が、別れようかなって、あの子に零してたことは正直ショックでした」

「うん」

「もうどうでもいいなんて思いながらも、彼がそんなことを言うもんかって、思ってしまった。信じていたのかも知れません。でも、彼は目を逸らした。だからつい、彼女に苛立ちを吹っ掛けてしまった。結果的には、全てが分かって良かったのかも知れませんけどね」


本当に女は面倒臭い生き物です、と苦笑した。斎藤も同じような表情を浮かべる。真ん中でブンタが、二人をキョロキョロと見て、可愛い顔をして首を傾げた。


「一人になって、初めに感じたのは不安でした。彼と結婚する未来を、少しでも見てしまったから。この先、一人でどう生きて行けばいいんだろうって。でも今は、一人でいいって思えるようになった」

「あ、そっか。前に言ってたよね。結婚しなきゃダメかって」

「はい。あれから仕事も忙しいですし、今回の件でこりごりというか。幸せだって、結婚の隣にしかないわけじゃない。さっきだって、皆が傍で背を押してくれて、本当に力強かった。それで幸せだなぁって思ったんです」

「そうかぁ……まぁ確かに、幸せなんてどこにでもあるよね。結婚しないと見えないものも、きっとあるんだろうなぁとは思うけど」


 グズグズと鼻を鳴らしながら、樹里は斎藤を見つめた。昼間よりもラフな格好をして、そっとブンタを撫でている。冷たい風が小さく吹いて、彼の前髪が揺れた。


「前におっしゃってましたよね。大切な人の最期の時に傍にいられるかどうか。それは確かにって、私も思うんですけどね」

「そうなんだよ……そうなんだよねぇ。でも、そう上手くいかないものです」


 斎藤には、今思い描いている人がいる。彼女がいるとハッキリ聞いてしまえば、心の整理が付けられるかも知れない。今夜、全てをクリアにするのも一つだろうか。でも、分かっている。そうする勇気など、きっとない。これからも仕事で顔を合わせねばならない彼に、自らフラれに行かなくてもいい。冷静な自分がそう呟いた。彼が結婚してしまうまで、この気持ちを淡く淡く持ち続けるくらい許されるのではないか。これは恋じゃないと思ってみたり、好きだと感じてみたり。右に左にブレる気持ちは、定まってくれない。そういうのもきっと、女心なのだと思う。

 ただ一つだけ気掛かりなことがある。もし、彼が結婚してしまったら? 樹里は落ち込むだろうし、泣きもするのだろう。それでも、おめでとう、と笑わなくちゃいけない。覚悟をしておかねばならないことだ。でも許されるのならば、もう少しこのままでいたい。彼とヒロミの仲は、樹里には分からないこと。それに、彼の言い方には『自分はそう思っているけれど』という含みがあった。もしかしたら、ヒロミが結婚をしたくないとか思っているかも知れない。今は、あれこれ妄想をして、勝手に不幸になることは避けたい。仕事がしにくくなるのだけは、ごめんだ。こちらから詮索をし過ぎないように、この関係を保ちたい。顔を持ち上げ見た斎藤は、いつものように穏やかな笑みを見せた。

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