第5話 そして、口を開いた

 いつもの公園で待ち合わせをして、いつもと変わらないように過ごした。宝飾店へは近づかないように気を付けたが、それ以外は普通に出来たと思う。カフェに入って、向かいに座る。コーヒーを頼んで、今日も暑いね、なんて他愛もない話をして笑った。なんてことない、いつもと同じ時間。平和に時が流れすぎて、本題を忘れてしまいそうになる。二人の目前に、コーヒーが並ぶ。ごゆっくりどうぞ、と店員が離れた瞬間、樹里の中に盛大なゴングの音が鳴り響いた。


「ねぇねぇ、千裕。これって一人で選んで買ってくれたの?」


 出来るだけ嬉しそうな顔で、ネックレスに触れながら千裕に問うた。まだ、彼を見ない。千裕のことは信じている。だが、昨日よりも追及してやろうと思う気持ちは強くなっていた。朱莉という強い味方。それから、あのブンタという犬の温もり。一人じゃないと思わせてくれた優しさが、今、樹里の背を押してくれている。

 朱莉は今朝も、電話を寄越した。話し合う時に近くにいます、と。 それは心強いと一瞬は思ったが、流石に断った。これは樹里の、一人で立ち向かうべき問題だ。終えたら必ず連絡を入れると約束し、しぶしぶ朱莉は納得してくれた。通話を終える時にくれた、相手の目をよく見て、という有り難い助言。疚しければそこに必ず表れるから、と。疚しければ、だけれど。


「そう、だね」

「ん? 違うの」

「あぁいや、そうだよ」


 妙な間が空いていた。まさか……これを香澄と買いに行った? ネックレスに触れたままだった手に力が入り、思わず引きちぎりそうになった。


「店には一人で行ったんだけどさ。でも、皆に相談したの。だから、全部一人ってわけじゃないんだ。ごめんね」

「皆って?」

「あ、ほら。樹里の誕生日の前の金曜日。俺、同期会で箱根に行ったじゃん。その時にさ、どうだろうって相談して。帰って来てから、土曜の夜に買いに行ったんだ。本当に助かったよ。皆、調べたりしてくれてさ」


 それは覚えている。千裕が同期会に行った二十二日金曜日の夜。樹里は美食会という社内サークルで、イタリアンバルにいた。皆で食事を囲みながら談笑していた時に、彼から写真が送られて来たのだ。懐かしい同期の顔に、老けたなと顔を綻ばせ、お姫様のようにど真ん中に陣取った香澄に苛ついたんだった。あぁその時か。


「へぇ。皆に?」

「そう。ここがいいんじゃないか。誕生石はルビーだぞ、とかって。おっさんたちが携帯で検索し合ってさ。俺一人じゃ決められなかったから、頼もしかったよ。でも買いに行ったのは一人。一人だよ」


 何故、そう一人を強調するのか。樹里のアンテナの感度が、徐々に、徐々に上がっていく。でも、まだ問い詰めない。静かにコーヒーに手を伸ばす。千裕はいつも通りだが、もう少し掘れば何かが出る。そんな気がした。


「へぇ、そうだった。じゃあ、皆にお礼でも言おうかなぁ」

「え、いや。それは、いらないんじゃない?」

「ん、なんで? だって考えてくれたんでしょう? 私はそれを貰って、とっても嬉しかったんだもん。それにしばらく話してないし、久しぶりだから……えっと同期、同期」

「いや、いや。いいって。恥ずかしいよ」


 携帯を弄って、メッセージアプリを立ち上げる。「小笠原さんもいたよね。彼女に言えばいいかな」と意地悪く吹っ掛けた。やたら慌てて止めに入る千裕には、怪しさしか感じない。


「もう、分かったよ。そんなに慌てなくたっていいのに」

「だってさぁ。そんなことしたら、俺、月曜から大変だよ? しばらく弄られるの目に見えてるじゃん。ただでさえさぁ、上手く指輪に誘導出来たかぁってさ。毎日煩いんだから。知ってるでしょ、アイツらのこと」

「まぁ言いそう、だよね」

「だろ?」


 ケラケラ笑って誤魔化すが、感度の高まったアンテナは、この彼の動揺を逃がさない。朱莉が言っていた。目をよく見ろ、と。千裕の目は落ち着きがなく、手にした紙ナフキンで流れてもいない汗を拭っている。


「あ、ちょっと待って。仕事の連絡入ってた」

「うん。やっぱり忙しかったんだろ? 気にしないで連絡して」

「ごめんね」


 基本的に千裕は優しいから、そう言うだろうと思った。仕事の顔を作って、樹里はあの時送られて来た写真を確認する。そして、絞られたターゲット。この中で一番真面目な男。タタッとメッセージを打ち込む指は軽やかに踊った。


『久しぶり。元気?』

『先月の箱根に行った同期会、千裕が色々世話になったみたいで』

『ありがとうね』


ここから顛末が知れて、樹里の方が笑いものになるかも知れない。だけど、そんなの知ったこっちゃない。どうせもう、あの会社に樹里はいないのだ。


「よし、ごめんね。とりあえずは、メッセージだけ送っておけば大丈夫かな」

「大変だね。大きい会社だと、また色々違うんだろうな。どうせウチなんてさぁ、って言っても樹里は知ってるかぁ」


 ヘラヘラと千裕は笑うが、樹里はこう言われるのが心底嫌いだった。

 いつもこうやって、千裕は自分を卑下する。樹里の会社の方が大きい。多分、収入も多い。そんなことを言っては、勝手に落ち込むのだ。樹里は人生設計をした上で、三十歳になる時に転職をした。給与面、福利厚生、それから事業面。きちんと考え、努力し、今の仕事を手に入れたのだ。それを、こう言われるのは面白くない。と言うのなら、自分だってそれを変えればいい。その努力すらしないのなら、言わないでもらいたかった。


「そう。樹里さぁ、指輪は、どういうのがいい? どこのが欲しいなとかさ、希望ってある?」

「指輪かぁ。うぅん、そうだなぁ」


 違う方向へ苛つき始めたら、今日の重大なミッションを見失うところだった。彼が自分で戻って来たことで、樹里は今一度スイッチを入れ直す。あんなにさっき目を泳がせたんだ。きっと、ボロはもっと出る。


「千裕、いいこと思い付いた」

「なに?」

「このネックレス買ってくれたところで買おうよ。これを先月買ったんですけど、今度は指輪を買いに来ましたって。どう?」


 千裕はきっと嫌がる。樹里は薄々そう思っていた。あんなに信じていたのに。諦めが段々と色濃くなっていく。


「いや、ちゃんといいところの買おうよ。お金のことは心配しないで。そのくらいの貯金はしてある」


 千裕は胸を張って見せるが、不安の色は隠せていない。僅かに二の腕が揺れている。テーブルの下で落ち着きなく、手を動かしているのだろう。あぁ、もう答えは出たのか。徒労感に一気に襲われる。三十代の大事な六年を返せ。あの子と付き合いたいのなら、もっと早く別れて欲しかった。四十が見える年になってしまった今、この時間は酷く惜しい。

 時計が揺れ、受信したメッセージが表示される。さっきの同期からだった。


『元気だよ。樹里は元気か?』

『同期会なんて最近してないよ』


 勘が当たったことに嫌気が差した。悲しい。悔しい。いや、それ以上に、腹立たしくて仕方なかった。仕事の件だと断って、樹里は堂々と返事を送る。千裕は少し狼狽えたが、仕事だと言われると強く止めることもなかった。


『元気、元気』

『やっぱりそうだよねぇ』

『じゃあさ、これっていつのか分かる?』


 そう打ち込んで、あの時千裕から送られた来た写真も送る。昨日千裕を誘った時よりも、ひどくスムーズに動く指に笑ってしまう。「大変だなぁ」とこちらを窺っている千裕は、ソワソワしているのが隠せていない。

 そしてまた、メッセージを受信する。もう携帯で確認するまでもない。時計で確認をして、はぁ、とあからさまに溜息を吐いた。樹里は真っ直ぐに千裕を見つめる。そして、口を開いた。

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