第31話 足利一族はみんな仲良し!(3)
足利
新田
ところが、大モンゴル帝国(1271年より「大元」)の圧力が強まる1272年、得宗の北条時宗と、その兄
……と、言われるんですが。
もちろん、一族内出世競争や一族内いがみ合いはあったでしょうけど、一族として見たばあい、この流れは、新田氏本家が主導権を持てなくなったから世良田氏と岩松氏が支え、世良田氏が失敗すると本家が主導権をとった、ということなんじゃないか、と。
この時期、足利氏のほうも順調ではなく、足利義氏の子の
この時期を支えたのが、泰氏の兄の
このリスクの多い時代、とくに北条氏の都合でいろんなものごとがかんたんにひっくり返る時代、ある家系がつまずいたら別の家系の者が主導権をとって一族全体をリードする、というルールがあった。そう考えたほうがいいのではないか、と思います。
だから、新田義重が長老だった時期には義重が足利氏も含めて全体のめんどうを見たし、足利義氏が御家人として出世したら義氏が新田氏を含めて全体の世話役になった。
それを「足利氏と新田氏は別で、後に新田氏が足利氏に屈服した」とか、「新田本家と岩松氏・世良田氏は対立関係にあって、岩松氏・世良田氏に奪われていた主導権を二月騒動で本家が取り戻した」とか、「分断と対立」を基調にして解釈しすぎないほうがいいんじゃないかと思います。
つまり、「最初から足利氏絶対優位で新田氏はその分家にすぎなかった」ということでもない。私は、新田義重が一門の世話役だった時期があると思っています。一方で、「足利氏と新田氏はもともと別の氏族で、後に新田氏が足利氏に屈服してその一門に組み込まれた」と考える必要もない。たがいに結婚で関係を結びあい、たがいに助け合う一族集団だったのではないかと思います。
もちろん、対立感情がゼロだったとも、「あいつをつぶしてやれ」的な陰謀がゼロだったとも言いませんけどね。
でも、対立があったとしても、足利氏・新田氏一族では、北条氏が何度かやったような激烈な殺し合い的お家騒動には発展していないと思うんだけど?
一族で失敗した者や一族内競争で敗れた者も、領内に本拠地を持たせてその子孫を存続させているし。
というか、なんであんなに殺伐としてるんだ、北条氏?
なんで殺伐としているかというと、地元領主の足利一族に対して、北条氏のばあい、競争で争奪しているのが「執権の権力!」という巨大なものだからでしょう。しかも、北条氏は、鎌倉に領地を持っていて、その収益で生きているわけではないので、敗者に対して「鎌倉でこれだけ土地をあげるからその収益で生活してね」というわけにもいかない。
でも。
北条氏は全国に領地を持っているのだから、どこか遠い土地に移って生き延びてね、はできたはずです。
そして、たぶん、実行したひとも多かった。
北条一族の競争で敗れた人たち、出世がうまく行かなかった人たちのなかに、鎌倉から遠い領地に移って生き続けた人たちがそこそこいたらしい。
建武政権や南北朝初期には、信州で決起した有名な北条
その反乱を起こしたのは、なりすましや
南北朝時代をめぐって思うままに 清瀬 六朗 @r_kiyose
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