第30話 足利一族はみんな仲良し!(2)

 まず、足利氏を「足利義康よしやすの子孫」、新田氏を「新田義重よししげの子孫」としましょう。

 この足利氏と新田氏のあいだで婚姻こんいん関係を結んでいるのは、べつに新田政義と足利義氏の娘にかぎりません。

 問題の足利義純よしずみと新田義兼よしかねの娘(義房よしふさの姉妹)も結婚していますし、義重の娘も足利義清よしきよと結婚しています。

 義清は足利義兼よしかねの兄で、木曽きそ義仲よしなかの配下でした。義仲系であったことからか、本家は継いでいないですが、義清の子孫も有力分家として残っています。南北朝時代・室町時代に活躍する細川氏や仁木にっき氏です。

 新田氏に属する里見義成よしなりは、その足利義清の娘と結婚しています。

 もともと足利氏と新田氏は婚姻関係で結ばれていたのです。


 新田義兼の妻の新田尼にったにが新田本家のことしか考えていないのなら、足利氏に嫁ぎながら離縁された娘の子に家の存続を認めるはずもありません。家の存続ぐらいなら「勝手にすれば」で認めたかも知れないけど、その子に、新田周辺の岩松を本拠地として分け与えるというのは優遇のしすぎじゃないですか?


 私は、足利氏と新田氏を含めた一族は「リスクの分散によるリスクヘッジ」を続けていた、と解釈するほうがいいのではないかと思っています。


 足利氏と新田氏を含む足利一族の祖はみなもとの義家よしいえの子の源義国よしくにです。

 その義国の二人の息子のうち、弟の足利義康のほうが先に出世しました。しかし、それは、義康が京都で活動して、目立つ活躍をする機会に恵まれたのに対して、義重が現在の群馬県や両毛地域で地元の領地(荘園)の管理をやっていたからです。しかも、義康が京都にいるあいだに保元の乱が起き、そこで目立つ活躍をしてさらに出世しました。

 しかし、親の義国は、義康だけを偏愛したわけではありません。

 義国は、その義康には足利荘を与え、義重には八幡荘を与えています。八幡荘のほうが河内源氏にとっては以前からの本拠地です。足利荘は平野部にあって収益が上がりそうではありますが、じつは現地には「藤原姓の足利氏」という一族がいて、そちらが現地を管理していました。つまり、義康とその子孫は、その藤原姓の足利氏と関係を調整して収益を上げなければいけなかったわけで、いろいろめんどうな領地だったわけです。

 けっきょく、藤原姓の足利氏は、源平の争乱(治承じしょう寿永じゅえいの乱)で平家側について追い出されてしまいますけど。


 藤原姓の足利氏という一族は、たいらの将門まさかどの反乱に対抗して戦った藤原ふじわらの秀郷ひでさとの子孫です。

 ちなみに、「佐野の馬 戸塚の坂で 二度転び」のさのまる……ではなく、佐野氏はその藤原姓足利氏の子孫です。

 藤原姓足利氏は、足利からは追い出されましたが、隣の佐野で存続したのですね(両毛線で足利‐あしかがフラワーパーク‐富田‐佐野で十二キロぐらい)。

 ああ、佐野ラーメン食べに行きたい!

 「さのまるの家」にも行きたい!

 ……ということは、ここではおいといて。

 義国は、京都にいた義康には、「京都に上級領主の義康がいて、現地を藤原姓足利氏が管理している」という役割分担が成り立つ足利荘を与え、義重には以前から保持している八幡荘を与えて現地で活躍させた。


 義重は義康が亡くなった後に京都に出ています。京都で人脈を拡げたことでしょう。八幡やわた荘でも京都でもいろいろな人間関係を築きました。そして、正妻の出身家である大和源氏や、義光よしみつ流の武田氏(甲斐武田氏)、木曽義仲系、平賀氏と、さまざまなところと関係を持ち続けました。

 また、八幡荘は嫡系ではない年長の子たちに譲り(里見氏、山名氏)、自分は新しく開発している新田荘に移るなど、義重も子どもたちに対しても偏りのないように配慮しているように見えます。


 足利義兼よしかねや、里見義俊よしとしの子である里見義成よしなりは、新田義重が動かないうちから源頼朝のもとに参じて御家人になっています。

 当時、足利家の祖となった足利義康は亡くなっていたので、源義国の子孫の家系の「族長」だったのは義重のはずで、足利義兼も義重の世話になっていたと見てはどうだろうか、と思っています。

 つまり、義兼や義成は、義重を裏切って、とか、義重を見捨てて、とかではなく、義重から

「うちと同じ源義家の子孫の頼朝というのが鎌倉で挙兵とかしたらしいけど、うまく行くかどうかわからん。わしは、もうちょっと様子を見ようと思うんだ。ついては、おまえたち二人、ちょっと鎌倉のほうまで行って頼朝の味方になってみないか?」

「いや、そんなのの味方になって、その頼朝っていうのがもし失敗したらどうするんですか」

「そのときはわしがめんどう見てやるから、とにかく行きなさい!」

とか言われて頼朝のところに行ったのではないか?

 実際に、義成は平賀ひらが朝雅ともまさが反逆者にされたことで失敗していますが、具体的なことはあまりわからないものの、里見一族はそのあとも続いています。義重が、というか、他の新田一族がめんどうをみたのでしょう。

 頼朝は失敗していませんが、新田氏・足利氏を含む一族のあいだで「失敗してもめんどうを見てやる」という合意はあったと見ていいと思います。


 ただ、このときの義重に「読み間違い」があったとすれば、頼朝が成功しすぎてしまったことじゃないかと思います。

 義国、義康、そして義重自身も京都で活動していたことがあります。頼朝につながる家系も義朝までは京都で活動していました。

 だったら、頼朝も、成功したら京都に出て行って、関東はもとのとおり平氏系や源氏系や藤原氏系の勢力が散らばる土地に戻るのではないか。

 そう期待していたら、鎌倉幕府というのができて、頼朝が鎌倉に根づいてしまい、その頼朝を中心に南関東の武士が「御家人」になって支配する体制ができてしまった。とくに、頼朝との関係で偉くなった北条氏とつきあわなければいけなくなった。

 そうなると、最初から頼朝の挙兵に参加し、北条氏とも関係がよかった足利氏のほうが一族のリーダーとしては適任になるわけで。

 広い意味での足利一族(義国の子孫)のなかで足利氏のリーダーシップが強まって行くことになったのでしょう。

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