第29話 足利一族はみんな仲良し!(1)

 新田義兼よしかねの息子の義房は早くに亡くなりました。

 しかし、義兼の女系の孫として岩松いわまつ時兼ときかねが、「足利氏でもあり、新田氏でもある」という立場で新しい家を興します。

 ……このひと、北条さんから「時」をもらって、おじいちゃんから「兼」をもらってますね? しかも、北条さんの「通字」のほうをもらってますよ?

 おじいちゃん両方とも「義兼よしかね」で、どっちからもらったかわかりませんけど。

 岩松さん、なんか、けっこうすごいじゃん?


 一方で、義房の残した義兼の孫が新田政義まさよしで、政義が新田氏の本家を継ぎます。

 新田政義は1240年ごろには当主としての活動を始めたようです。

 ところが、その矢先、1242年に、政義が幕府から身柄を預かっていた罪人に脱走されるという失敗をします。

 その事件の2年後、1244年、政義は、幕府の「京都大番役」という役職を務めるために、京都に行きます。

 そして、京都で病気を理由にして勝手に出家してしまうという事件を起こしました。


 当時、現役の当主が勝手に出家するのを「自由まま出家」といい、主君に対する裏切りとして処罰されました。

 当時の出家というのは引退を意味しますから(出家しても引退しないひとは院政をやる法皇をはじめいっぱいいましたけど)、「主君を助けるという重大な任務がありながら、勝手に引退しやがって! 許さん!」ということでしょう。

 また、そういうことから、自由出家は主君に対する強い不満の表明と受け取られるわけです。

 建武政権を批判した「二条河原の落書」にも「生頸なまくび 還俗げんぞく 自由出家」と出て来ます。「生頸」は生首、還俗は僧が僧をやめて俗人に戻ることです。

 生首はともかく、「還俗、自由出家」は、「自分には財産なんか入ってこないから寺で暮らそうと思っていたら財産が転がり込みそうになったので僧をやめたりとか、なんかややこしい問題を押しつけられて損をしそうだから勝手に僧になったりとか」ということでしょう。


 なぜ政義がこのとき「自由出家」をしたのかはよくわかっていないようです。

 後の室町時代の記録に、京都で、朝廷(後嵯峨ごさが天皇)に武官としての官職を要求して拒否されたので、それに不満で出家した、という記述があるそうです。

 ただ、1244年という年を考えると、そういう個人的な事情とは言い切れないような。

 その年は、執権北条経時つねときに将軍九条くじょう頼経よりつねが将軍を辞めさせられ、息子の頼嗣よりつぐが新将軍に就任した年だからです。

 頼嗣の将軍就任が4月(旧暦)、政義の自由出家が6月ということですので、時期的にも近接しています。

 京都大番役というのは朝廷を警護する役割ですから、摂関家とも関係があったはずです。摂関家の長老であった頼経の父・頼嗣の祖父の九条道家みちいえとも関わりがあったでしょう。

 道家は、このとき、関白を辞して、摂政・関白の上に立つ「太閤たいこう」として大権力をふるっていました(出家した太閤はとくに「禅閤ぜんこう」と呼ばれます。1244年時点で道家は出家しているので正式には「禅閤」です)。

 絶大な権力をふるう太閤ってべつに秀吉だけじゃないんだね。

 その太閤道家がある日新田さんを呼び出す。

 「新田さんさぁ、こんど北条経時とかいう若いのが、うちの息子を将軍から辞めさせて、まだ小さい孫を将軍にしたとかいうんだよ。執権で権力を独占したいって野心が見え見えじゃないか。新田さんとこって名族でしょ? なんとかなんないかなぁ?」

 「いや、そう言われましても(北条に逆らうと怖いし、この前不始末をやったところだしなぁ)……」

 「あぁん? この太閤道家の言うことがきけないわけ? だいたい清和源氏って摂関家に忠実な武者の家柄でしょ? 摂関家の長に対する拒否権なんてあるわけないよ」

 「いや、だから、そう言われましても(もうそんな時代じゃないし、京都ではこのひとが絶大な権力者でも、関東に帰ったらやっぱり北条のほうが偉いしなぁ)……」

 ……というような事情で、摂関家の大長老と気鋭の執権の板ばさみになって当主の地位を投げ出しちゃったんじゃないのかなぁ?

 いや。何かの史料に書いてあるとかいう根拠はありませんよ。

 でも、政義は出家して、もちろん引退したのですが、自分の寺として円福寺えんぷくじというお寺を創建しています。そこに葬られていますし、このお寺は現在も続いているらしい(太田市別所町)。

 主君への裏切り扱いされるはずの自由出家で、自分のお寺を持てた、っていうのは、そこそこ優遇措置だったわけで。

 「勝手に引退(自由出家)は許せないけど、事情を考えるとしようがないよね」という何かがあったとすれば、そんな事情ではないかと思うのですが。


 新田義重よししげが頼朝への帰参が遅れて幕府ににらまれ、義兼の息子は早くに亡くなり、ようやく政義が当主の地位を継いだと思ったら「自由出家」……。

 足利さんのほうでは、義氏がうまく北条氏に寄り添って波に乗っているのに。

 そこで、新田義兼よしかねの妻の新田尼にったに(「にったのあま」と読むのかな?)は、勢いの強い足利氏の力を借りるために、まず政義の妻に足利義氏よしうじの娘を迎えた。その政義が不始末で引退すると、政義の息子の政氏まさうじは足利義氏の下で元服し、その偏諱へんきをもらった。

 これによって新田家本家は足利氏の下に組み込まれた。それを象徴するのが「氏」の通字だ。

 それは、つまり、それまで足利氏と新田氏は別々の氏族集団だった、ということなんですが。

 それに対して、近年は「足利 対 新田」という図式は『太平記』が創り出したもので、もともと「足利氏から独立した新田氏」なんてものは最初から存在しない、という説が提出されています。

 『太平記』に関係する点ですので、この点を考えてみることにします。

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