南北朝時代をめぐって思うままに
清瀬 六朗
第1話 はじめに
南北朝時代という時代が気になっていました。
日本の南北朝ですよ。
いや、『三国志』好きということもあって、魏晋南北朝の南北朝も気になってはいるんですけど、それはそれとして。
なぜ、と言われると、いろいろと思いつくことはあります。
まず、子どものころ、「うちの祖先は南朝のために戦ったんだ!」と豪語しているひとが身近にいたことです。内容が「豪語」なのかどうかわかりませんが、その方は家系に誇りを持っていらして、とても豪快にそう語っておられたのです。
それで「南朝」という存在が私の印象に深く刻まれました。
つぎに、網野善彦さんの本を読んだ影響でしょうか。もっとも、後醍醐天皇を扱った『異形の王権』は、読んだのもだいぶ後で、しかもあまり印象に残っていません。それより、日本中世史・ヨーロッパ中世史の四人の対話集『中世の風景』(中公新書)にあった、「日本の社会にとって南北朝時代は大きな転換点だった」という発言の影響のほうが大きい。「あ、なんかすごい時代だったんだ!」という高揚感がありました。
いや。私が高揚感を感じてもしようがないんですけど。
もうひとつは、南朝史跡探訪というわけではなく、「鉄」的興味(乗り鉄)で五新線計画線上を走っていたバスに乗りに行ったときの思い出です。
五新線というのは、奈良県吉野地方の
鉄道の路盤ですから、道幅もほぼバスの幅くらいしかなく、橋も鉄道の鉄橋と同じ造り、トンネルも鉄道の単線用のトンネルという、センス・オブ・ワンダーに満ちた路線でした。
その途中に
そこが、一時期、南朝の首都だったのです。
いま、奈良交通バスだと、バスは賀名生皇居(堀家住宅)の近く(賀名生和田)に停まりますが、五新線計画線のバスは丹生川の対岸が賀名生の停留所でした。皇居跡を川の向かい側から遠く眺めたのを覚えています。
吉野が陥落した後、南朝はここに首都を置いていたのだな、と思うと深い感慨がありました。
現在だと、大阪から行っても奈良から行っても五条までがかなり時間がかかるうえに、五条からまた時間がかかるので、「こんな遠いところに都があったのか!」という印象があります。『太平記』でもそういう描きかたですが、しかし、丹生川や吉野川の水運を利用していた当時は、いま感じるほど「都会から遠い」という場所ではなかったのかも知れません。
ちなみに、最近(といっても新型コロナウイルス感染症流行前ですが)になって再訪したときには五新線計画線のバスは廃止されていました。そのバスの賀名生の停留所も寂れてみましたが、「廃駅」という感じが漂っていて、近くのトンネルは立ち入り禁止となっていました。
そのほかに、ご多分に漏れず大河ドラマ『太平記』を見た影響とか、最近だと、岡野友彦さんの『北畠親房』(ミネルヴァ日本評伝選)、亀田
ともかく。
というわけで。
鎌倉時代末期から建武新政期、南北朝時代について、私の感じていることをいろいろと書き散らしてみたいと思います。
基本的に「思っていること」・「考えていること」を書くので、「え? そんな話どこに書いてあったの?」、「忘れた!」みたいなことが多発すると思います。明らかに飛躍していることとかもいろいろ出て来ると思います。
以前は、学術論文というのには遠く及ばないものの、どこに根拠があるかくらいはきちんと詰めて確かめた書こうと計画していたこともあるのですが……。
それだと、いつまで経っても書けないので、とりあえずこういうかたちで、かたちにしておこうと思い立ったわけです。
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