第2話 もし、後二条天皇と足利高義が…
歴史を動かすのは社会情勢や経済情勢であって、英雄や個人ではない――。
私は、高校生や大学生のころ、そういうふうに言われて歴史を勉強してきました。
たしかにそういう面もあると思います。
どんなに大きな力を持つ英雄が登場したところで、当時の産業の生産力や輸送力で不可能なことをたくらんでも、それが実現できるわけでもありません。
しかし、一面で、後醍醐天皇が登場しなければ、鎌倉幕府や北条氏の支配があのようなかたちで倒れることもなかった。それも確実だと思います。
もちろん、当時の武士社会はいろいろな問題を抱えていました。武士社会を支えるための土地(所領)は不足していました。流通は発展していて、元(大元王朝)の再襲来への備えもあって日本列島の一体化も進行していました。
そんななかで武士は全体として困窮し、「徳政」(「徳」のそなわった政治)といえば「武士の借金をなかったことにすること」という雰囲気もできてきていました。
鎌倉幕府にしても、京都の院政体制にしても、支配が破綻する「可能性」はあちこちに生まれていた、
そんな事態に対応できなければ、やがては鎌倉幕府も倒れたかも知れません。
でも、後醍醐天皇が登場しなければ、「あのような倒れかた」はしなかったでしょう。
さらに、建武の新政の開始やそれに続く南北朝時代の開幕には、人の「寿命」という、人間にはなかなかどうにもできない要素も関係しています。
もし、後醍醐天皇の兄である後二条天皇が長生きしていれば、後醍醐天皇(
当時の天皇家の系譜(皇統)は「大覚寺統」と「持明院統」に分かれていました。後深草天皇と亀山天皇が兄弟で、その亀山天皇(亀山法皇)の子孫が大覚寺統、後深草天皇(後深草上皇)の子孫が持明院統です。大覚寺統と持明院統から交互に(厳密に交互ではありません)天皇が即位するというこの時期の慣行を両統
このうち大覚寺統の「嫡流」は亀山法皇から後宇多上皇(法皇)へと伝えられました。後宇多上皇の次に大覚寺統が院政を行う番が回ってくれば、後宇多院政の下で天皇だった後二条天皇が上皇として院政を行うはずでした。後二条天皇には、跡を
ところが、後二条天皇が、天皇在位途中でなくなったために、大覚寺統の後継者の地位に就いたのが後醍醐天皇でした。
また、足利尊氏には
本来なら、足利氏一族全体を率いるのはこの高義だったはずです。
ところが、この高義が、ちょうど後醍醐天皇が即位する前後の時期に亡くなっていて、やがて足利尊氏(後醍醐天皇=尊治親王から「尊」の字を与えられるまでは足利高氏。ここでは基本的に「尊氏」に統一します)が高義にかわって足利氏を率いることになります。
ところで、足利尊氏は母親が北条氏出身ではありませんでした。これが、尊氏が鎌倉幕府から離反した一つの要因だと考えられています。もっとも、尊氏自身の妻は北条氏一門出身でしたが。
当時の足利一族の宗家は、代々、北条氏一門を妻にしていました。高義も母は北条氏出身です。
ところが、その北条氏との血縁関係が深い高義ではなく、尊氏が一族のリーダーになってしまいました。
尊氏の母は上杉氏の出身です。
室町時代の上杉氏は足利一門の鎌倉
しかし、上杉氏は、鎌倉時代中期に京都から鎌倉に来た一族です。尊氏のころにはまだ公家っぽさや京都との関係を深く残していたでしょう。尊氏が、上杉氏を通じて、後醍醐天皇の朝廷と、北条氏を経由しない独自のつながりを持っていたとしても不自然ではありません。ことに、そのつながりは、元弘の乱で足利軍を率いて関西の戦場に戦う際に活かされたでしょうし、北条氏・鎌倉幕府を見限って後醍醐天皇側に従うという決心にも影響したでしょう。
もし、北条氏との関係がより強い足利高義が足利軍を率いて出撃していたら、足利軍の転向は起こらず、京都の北条方(六波羅探題)が持ちこたえた可能性はけっこう大きかったと思います。
「後二条院政で足利氏のリーダーが高義」ならばまず起こりえなかったことが、「後醍醐天皇親政で足利氏のリーダーが尊氏」だったことで起こってしまった。
それが、建武の新政から南北朝時代へという歴史の動きを起こした大きな要因だったと私は思っています。
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