第4話 院政システムと両統迭立(2)

 持明院統と大覚寺統に皇統が分裂したあとも、それぞれがさらに分裂する可能性がありました。

 まず持明院統のほうに注目します。


 持明院統では、伏見天皇が退位したあと、子の後伏見天皇が即位して、伏見上皇が院政を行いました。

 その後伏見天皇が退位したあとは大覚寺統の後二条天皇が即位し、後宇多上皇が院政を行います。

 持明院統では、後伏見天皇の皇子がまだ幼かったので、後二条天皇の次に即位するはずの皇太子に後伏見天皇の弟を推します。

 それまではもっと幼い幼帝の即位があったのですが、この両統迭立の時代には、ある程度の年齢になっていないと皇太子にもなれないというルールになっていたようです(ただし後伏見天皇は生まれて間もなく父伏見天皇の皇太子になっています)。

 それでいて、この両統迭立の時代には、天皇在位はだいたい10年というルールになっていました(後醍醐天皇の在位が10年を超えたとき、持明院統の側から「10年を超えたのにまだ在位している」という苦情が出ています)。そうすると、相手方の系統からの即位をはさんで20年、自分の系統で次も続けるとすると10年で次の候補者を即位させなければならないわけで、人の世代のサイクルよりも速くなってしまいます。そうすると、同世代で「中継ぎ」をつくる必要がどうしてもできてしまうわけです。


 持明院統では、この後伏見天皇の弟が、大覚寺統の後二条天皇の後に即位しました。花園天皇です。

 花園天皇は「中継ぎ」(一代限り)であることを自覚していて、持明院統の次の天皇候補である皇子の帝王教育に力を注ぎました。まじめな花園天皇は、次は、自分の子ではなく、嫡流である後伏見上皇の子に譲るべきだ、と固く考えていたようです。

 この皇子が量仁かずひと親王で、後に、後醍醐天皇が隠岐に配流された後に即位して光厳こうごん天皇となります。

 だから、花園天皇の代での持明院統の再分裂は避けられたのですが。


 南北朝時代に入ったあと、北朝(持明院統嫡流)の光厳上皇が院政を行うようになり、まず自分の弟(光明天皇)を、ついで自分の子(崇光すこう天皇)を即位させます。

 また「弟に譲位」です。

 光明天皇を即位させたのは、崇光天皇がまだ幼くて即位させられなかったからで、やっぱり「中継ぎ」でした。

 光明天皇はとても控え目な性格だったらしく、「中継ぎ」としての運命を受け入れ、自分の皇子を天皇にしようとは考えなかったようです。

 それで、光厳上皇の子の崇光天皇が無事即位するのですが!

 そこで、光厳上皇は、「花園上皇の皇子ということになっている直仁なおひと親王はじつは私の子である。崇光天皇は直仁親王に譲位して、崇光天皇の子孫は直仁親王の子孫によく仕えるように」というようなことを言い、直仁親王を崇光天皇の次の天皇に指名してしまいました。

 つまり、崇光天皇は、やがてはほとんど歳の差のない弟に譲位しなければならなくなってしまったのです。

 現在、直仁親王がじつは光厳上皇の子である、ということは事実だと考えられています。しかし、ともかくも形式上は、光厳天皇(上皇)‐崇光天皇という嫡流が形成されつつあるのに、光厳上皇は花園天皇の流れを嫡流にしようとしたのです。


 もしかすると、このあと、崇光天皇の子孫と直仁親王の子孫でまた天皇の系統が分裂してしまったかも知れません。それで紛争になったかも知れないのですが、ここで南朝が介入して(「正平の一統」)、光厳上皇の院政は停止させられました。崇光天皇も皇太子の直仁親王も廃位されてしまい、直仁親王の系統と崇光天皇の系統で北朝が分裂することは避けられました。分裂の危機以前に北朝存続の危機という事態になって、直仁親王系統と崇光天皇系統への分裂は避けられたわけです。

 それでそのあと丸く収まったかというとそうでもなく、今度は、北朝は存続の危機を乗り切ったのに北朝皇統が分裂してしまう、という事態になります。

 それについては、後ほど、また機会があればお話しする、ということにします。


 なお、直仁親王への譲位は、「おじさんの子ということになっているがじつは私の子」という皇子に対する光厳上皇のたんなる思い入れとか、養育してくれた花園上皇へのたんなる恩返しとかではない可能性が指摘されています。

 崇光天皇よりも直仁親王が足利尊氏一家(尊氏の妻の赤橋登子)と血縁関係が深いので、直仁親王を跡継ぎにしたほうが足利家の支援を得やすいという事情があったという説が出されているのです。

 足利尊氏は、後醍醐天皇と政治的に対立して光厳上皇を擁立してからも後醍醐天皇に親しみを感じていたようです。ですから、光厳上皇としては、情勢次第では南朝と尊氏が妥協して北朝が危機に瀕する可能性を感じていたかも知れません。直仁親王を後継者にしたのはそれに対する予防策だというわけです。

 その「予防策」がほんとうに機能したか、というと、これも「……?」なのですが、それもまた後ほど……。

 いずれにしても、「次の天皇を決めるのは院政を行っている上皇の役割」という院政の機能が、直仁親王を皇太子にするということを可能にしたわけです。


 持明院統(→北朝)では、「天皇の弟」という立場から花園天皇(後伏見天皇の弟)と光明天皇(光厳天皇の弟)が皇位に即いたのですが、どちらも「中継ぎ」の役割に忠実で、自分の子に天皇の位を伝えようとしませんでした。

 また、崇光天皇の後は、やはり弟の直仁親王に皇位が移ることが予定されていて、北朝皇統再分裂の可能性がありました。これは、南朝が外部から介入したためにそれどころではなくなってしまいました。

 持明院統・北朝が、「弟への譲位」を繰り返しながら、その南朝の介入まで分裂しなかったのは、偶然、花園天皇(上皇)と光明天皇の性格が控え目だったからか、それとも、だれかが、たとえば光厳上皇が分裂しないように強い意志でコントロールしていたからなのか、それとも臣下の公家集団がしっかりしていて皇統分裂という事態を回避しようと努力したからなのか?

 私にはよくわかりません。

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