第5話 「文保の御和談」をめぐって

 持明院統・北朝のほうは「弟への譲位」を繰り返しても皇統分裂は起こらなかったのですが、大覚寺統では「再分裂の危機」が現実のものになってしまいます。

 後醍醐天皇が、「中継ぎ」としての立場に不満で、自分の皇子に天皇の位を伝えようという意志を持ったからです。

 この流れを、後醍醐天皇が「中継ぎ」として立てられたところから見てみましょう。


 大覚寺統の後二条天皇が在位中に亡くなり、「天皇在位はだいたい10年」の期限より早く、持明院統から花園天皇が即位することになりました。

 後二条天皇の子の邦良くによし親王はまだ幼いということで、ここで花園天皇の皇太子には後二条天皇の弟にあたる尊治たかはる親王が立てられました。後の後醍醐天皇です。

 花園天皇より後醍醐天皇のほうが10歳近く歳上で、皇太子のほうが天皇よりも歳上という異例の事態です。

 かつて、平氏政権成立期に、二条天皇の皇子である六条天皇の皇太子に叔父の(後の)高倉天皇が立ったことがあります。このときは、父の弟に皇位が移って世代が一つ上に戻りました。もちろん高倉天皇のほうが歳上です。

 花園天皇も後醍醐天皇も後嵯峨天皇の曾孫なので世代は同じですが、年齢差は六条天皇と高倉天皇よりも開いています。

 花園天皇は(上皇になってからも)まじめなひとで、ずっと日記をつけていました。

 花園天皇は、その日記に、後醍醐天皇を「父のような年齢」と記しているようです。実際にはそこまで年齢差はないですが……。


 後醍醐天皇の皇太子には、「天皇の位を持明院統に戻して量仁かずひと親王(後の光厳こうごん天皇)」ではなく、同じ大覚寺統の邦良親王が立てられます。後二条天皇の皇子で、いわば大覚寺統の嫡流です。こうすると大覚寺統の天皇が連続することになります。

 後醍醐天皇が即位した当時には、後宇多法皇の院政が続いていましたので、この皇位継承順を決めたのは後宇多法皇です。幕府の関与の程度についてはよくわからないところもありますが、幕府の承認を取っていたのも確実です。

 このとき、邦良親王の次には量仁親王に皇位を移すことまで決まったとされていて、これを後醍醐天皇即位当時の元号をとって「文保ぶんぽうの(御)和談」といいます。

 そこまでかっちりした決めごとができたかどうか、たぶんそこまで決まっていなかったのではないか、という説が現在では強くなっているようですが、少なくとも、後醍醐天皇と邦良親王で大覚寺統の天皇が続くことは後醍醐天皇即位当時に決まっていたようで、後醍醐天皇のすぐあとに持明院統に皇位を戻すという可能性は小さかったと見ていいと思います。


 そこで、なぜ、「中継ぎ」の後醍醐天皇のあとに、持明院統の「本命」(嫡流)である量仁親王を皇太子にしなかったのか、また、持明院統寄りとされる鎌倉幕府がどうしてこういう大覚寺統に有利な決定を阻止しなかったのか、という「謎」が出されています。

 幕府がほんとうに「持明院統寄り」だったか、という問題はべつにあるのですが、それにはここでは触れないことにして。

 大覚寺統側での院政の担い手(治天の君)となる後宇多上皇が、大覚寺統から二代続けて天皇を出すことで、大覚寺統で天皇の位の独占を図ったのだという説もありますし、幕府が態度を決めかねているうちに時間が経ってしまったので、そのお詫びに大覚寺統に有利に裁定したという説も読んだことがあります。


 私は、単純に、後醍醐天皇が即位したときの量仁親王がまだ幼く、「あまりに幼いと皇太子にもなれない」というこの時期のルールに従っただけ、ということで説明がつくのではないかと思うのですが。

 それに、仮に、「先に量仁親王が即位して後で邦良親王」ということにすると、邦良親王は量仁親王よりも10歳以上も歳上(後醍醐天皇と花園天皇よりも年齢差が大きい)ですので、また「歳下の持明院統の天皇から歳上の大覚寺統の天皇へ」という譲位が起こってしまいます。

 もし、邦良親王が「天皇在位は10年」というルールに従うならば、邦良親王が譲位した時点で、邦良親王即位のときとほぼ同じ年齢の量仁親王が即位することになり、年齢差的には自然な継承になります。

 もし単純に「10年ルール」が守られたとすると、後醍醐天皇の在位が1328年まで、邦良親王の在位が1338年までとなります。もし量仁親王が1338年に即位したとしても20歳台なので、10年在位してから院政を行って権力を握るとしても遅すぎる年齢ではありません。もしあいだに大覚寺統の在位がはさまったとしても、量仁親王の院政開始は40歳台で、院政で政治を主導するにはちょうどいい年齢です。


 実際には、建武の新政をはさんだおかげで、1336年、量仁親王は北朝で院政を開始することになりますが(光厳上皇)。

 そのときの量仁親王(光厳上皇)はまだ20歳台、それも、現在ならば大卒新卒採用の新入社員くらいの年齢です。「文保の御和談」のとおりならまだ天皇にも即位していなかったはずの年齢の「青年上皇」でした。


 両統迭立というと、「大覚寺統と持明院統が交替で天皇を即位させる」という説明がされるのですが、厳密に交互にはなっていません。

 「亀山天皇‐後宇多天皇(亀山院政)」と大覚寺統が続いた後に、「伏見天皇(後深草院政)‐後伏見天皇(伏見院政)」と持明院統が続き、そのあとが大覚寺統の後二条天皇(後宇多院政)と持明院統の花園天皇(伏見院政‐後伏見院政)で一代ずつの交替です。

 こうなったのは、「そういうルールがあったから」というより、それぞれの時代の権力闘争の結果という面が大きい。でも、そのルールが仮にできていたとすると、「同じ系統(皇統)から二代続いても許容範囲内」という「先例」にはなり得たのではないか。


 私たちは、その後の展開を知っているので、後醍醐天皇の即位の際に皇太子も大覚寺統で押さえたことが問題だ、という感覚で見てしまいます。

 また、邦良親王が皇太子のまま亡くなったときに激しい後継者争いが生じたのは確かです。持明院統の側が、二代続けて大覚寺統が皇位を押さえれば、大覚寺統の皇位が永続化してしまうのでは、という懸念を持ったことはじゅうぶんに考えられます。だから「文保の御和談が問題の根源」という見かたが邦良親王が亡くなったとき(1326年)にはすでに存在したのかも知れません。

 でも、年齢的に見て、(後醍醐天皇が邦良親王への譲位を拒むという事態を想定しないとすると)後醍醐天皇(大覚寺統中継ぎ)‐邦良親王(大覚寺統嫡流)‐量仁親王(持明院統嫡流)という譲位順がもっとも無理がないと思えるし、幕府もそう判断したからこそその方針を支持したということではないかと思うんですが。

 どうなんでしょう?

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