第6話 「両統迭立」のルールはいつできたか?

 いや、ほんとに「両統迭立」なんて「ルール」があったのか、という問題もあって……ですねぇ。

 ……って。


 ここまでに「両統迭立」というタイトルを自分で掲げておいてこう言うのもどうですかね?

 計画的に書いてないからこういうことになるんだぞ、と。

 いや、計画的にプロットをかちっと作ったほうが成功するかというと、少なくとも私のばあいはそうとは限らなくて……。

 いや、ほんとほころびるんですよ。

 設定上、この一日にヒロインが何の行動もしてないけど、ここで行動しないのはおかしい。行動しないには理由があったはずだ。じゃあ、この日、ヒロインは何をやってたんだ? そこで、その日のヒロインの行動を書いたりしていると、そこから物語があらぬほうに展開したりとか。

 ま、世のなかそういうもんですよねぇ。


 「そういうことは私が小説を書くときには起こらない」とおっしゃる方もいらっしゃると思いますが……。

 とかいう話を書くと、これが「創作論エッセイ」になってしまうので、ここではやめておきましょう。


 まず、後嵯峨法皇が、大宮院とのあいだの皇子二人を相次いで天皇にする。どちらが次の最高権力者かを決めないまま亡くなり、幕府が大宮院に後嵯峨法皇の遺志を確認して亀山天皇が後継者になる。亀山天皇は自分の息子の後宇多天皇に譲位して院政を開き、同時に、後宇多天皇に「院政を行う上皇」(治天の君)になる可能性を開く。

 これに不満を持った亀山天皇の兄の後深草上皇が幕府に訴え、後深草上皇の子の熈仁ひろひと親王(後に即位して伏見天皇)が亀山天皇の皇太子に決定します。

 ただ、このときには、いちおう、熈仁親王が亀山天皇の「猶子ゆうし」になるという形式をとっています。


 この「猶子」というのがよくわからない制度で。

 「相続権のない養子」などと位置づけられますが、親のステイタスを継承するために猶子になることもあり、「養子」との違いはそれほど明確ではないようです。「「はっきりした養子」よりも「養子」度の低い養子」という感じでしょうか?

 この場合も、「亀山上皇の猶子なのだから亀山上皇の子として即位した」と「後深草上皇の実子なのだから後深草上皇の子として即位した」と両方に取れるようにした、ということなのかも知れません。

 そこまでの意味はなかったのかも知れませんが。


 そのあと、伏見天皇が自分の子の胤仁たねひと親王を皇太子にします。この皇子が後伏見天皇として即位し、持明院統が、後深草上皇の院政‐伏見天皇の親政‐伏見天皇の院政と朝廷の政治権力を握り続けることになります。

 後深草上皇が出家して伏見天皇の親政が始まった直後、浅原為頼ためよりという武士とその子たちが代理に乱入し、伏見天皇と皇太子を追い回すという事件がありました。暗殺未遂事件ですね。


 この浅原為頼というのは、甲斐武田氏と同じ「甲斐源氏」とよばれる一族でした。

 「蒙古襲来」に際して日本の武士の指揮をとったのは執権北条時宗でした。時宗が30歳台で亡くなると、時宗を支えてきた安達あだち泰盛やすもり平頼綱たいらのよりつなのあいだで権力争いが起こり、平頼綱が安達泰盛を滅ぼします。

 このときには安達方の武士への追及が厳しかったらしく、浅原為頼も安達方として所領を没収されたそうです。


 で、北条氏の最高権力者である北条貞時さだときがまだ若かったこともあって、平頼綱が権力を握るのですが。

 幕府側で平頼綱が権力を握った後に、伏見天皇が即位し、後に後伏見天皇となる胤仁たねひと親王が皇太子になるという動きが、続きます。

 さらに、幕府側でも、後嵯峨天皇の孫にあたる惟康これやす親王が将軍の座から追われ、新たに後深草天皇の皇子である久明ひさあきら親王が将軍になっています。久明親王は伏見天皇の異母弟にあたります。

 当時は将軍といっても実権はありませんが。

 こうやって見ると、平頼綱としては、後深草上皇‐伏見天皇‐皇太子胤仁親王(後の後伏見天皇)として、さらに将軍も持明院統から出す、ということにして、持明院統を天皇の系統(皇統)として確定したいという意向を持っていたのかも知れません。

 後深草上皇は出家したあと法皇として院政を開くこともなく、伏見天皇に院の権力を譲ってしまうのですが、これも、早めに譲位して持明院統を唯一の皇統として固めたかったという意図なのかも知れません。

 後の世に、徳川家康が秀忠に将軍職を譲って「大御所」になったのと同様ですね。


 で、そんなときに浅原為頼の代理乱入事件が起こっているので、伏見天皇は、大覚寺統の亀山法皇の差し金ではないかと疑ったようです。しかし、亀山法皇自身が否定したうえに後深草法皇(院政は行っていませんが持明院統の「大御所」的存在です)が亀山法皇に嫌疑を及ぼすことに反対したために、それ以上の追及はされませんでした。


 その平頼綱が「平禅門へいぜんもんの乱」で失脚し、幕府の権力が執権北条貞時の手に移ると、伏見天皇の譲位と伏見院政の開始とともに、邦治くにはる親王(後の後二条天皇)が皇太子になっています。

 さらに、「後伏見天皇在位で伏見上皇の院政」の期間は西暦で1298年から1301年と短く、後二条天皇の即位と後宇多院政の開始となります。大覚寺統の支配に戻ったわけです。

 しかし、このとき、後二条天皇の後継者には持明院統から富仁親王(後の花園天皇)が立つことになり、皇統を大覚寺統に固定することもしませんでした。

 貞時が幕府の実権を握ってからは、幕府は、一方的に持明院統を支持するのではなく、大覚寺統に皇統を戻すわけでもなく、「両統迭立」へと方針を変更したようです。

 「天皇在位10年ルール」というものが存在したとしたら、これもこの時期に形成されたものではないかと思います。

 花園天皇が10年在位で譲位していること、また、前に述べたように、後醍醐天皇の在位が長くなると「10年を超えてまだ在位している」と持明院統側から不満が出ていることなどを考えても、持明院統には「10年ルール」のような認識はあったのではないかと思います。


 ただ、ここで、持明院統と、北条貞時支配下の幕府は「両統迭立」と「10年ルール」を受け入れていたとしても、大覚寺統が受け入れていたかどうかはわかりません。

 もしかすると、「両統迭立」・「10年ルール」で院政権力に復帰した後宇多上皇はまだこれらのルールを前提にするつもりがあったのかも知れません。

 しかし、伏見天皇への譲位をきっかけに「後深草院政‐伏見天皇‐胤仁親王皇太子(後の後伏見天皇)‐久明親王鎌倉将軍」という「持明院統権力独占体制」を作られてしまった亀山法皇としては、「こんど、皇統を手放したらもう戻って来なくなるのでは?」という疑念を持ったとしてもふしぎはありません。

 そして、後醍醐天皇(尊治親王)は、その晩年の亀山法皇の影響を受け、もしかすると、その「遺志」を後宇多上皇・邦良親王よりも強く受け継いでいる可能性があるのです。

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