第9話 鎌倉幕府の性格

 ところで、この時代の鎌倉幕府は、源頼朝が創立したときから独特の「進化」を遂げていました。

 では、鎌倉幕府とはどういう組織だったのか?


 鎌倉幕府の初代将軍(「大将軍」)は源頼朝で、頼朝はその子孫に将軍の地位を伝えようとしました。

 しかし、源頼朝の子孫は、頼朝の子の実朝の代で断絶します。

 平家を滅ぼした源氏も、平家を追うように滅亡してしまうのですね。

 平家の断絶のほうは『平家物語』で「諸行無常しょぎょうむじょう」をテーマに壮大に描かれますが。

 源氏の断絶のほうは「盛者必衰の理をあらす」とか「ただ春の夜の夢のごとし」とか慨嘆がいたんされることはない、というのは、何なんだろうな……。


 ところで、「平家が滅亡した」というときの「平家」というのは、「平」という姓を持つ一族のうちいわゆる「伊勢平氏」の本家に当たる家のことです。

 「平氏」というと「平」姓を持つ一族のことですが、「平家滅亡」で滅亡したのは「平」姓の一族全体からするとごく一部です。全部が滅亡したわけではありません。

 しかも、平清盛の兄の平頼盛よりもりは「平家都落ち」に同行しておらず、その子孫は鎌倉幕府体制の下でも存続します。だから、「伊勢平氏の本家」が全滅したわけでも、じつはないのですけど。


 同じように、鎌倉幕府で「源氏が滅亡した」と言ってもそれは源頼朝の子孫が断絶したということです。源氏全体が滅亡したわけでもなく、源頼朝が属する「清和源氏」全体が滅亡したわけでもありません。

 ただ、「源頼朝の子孫でなければ鎌倉幕府の将軍になれない」という制度を作り上げたら、その次の世代で頼朝の子孫が断絶してしまった、ということなので、まあ、大事件ですね。少なくとも想定外の事態ではあったでしょう。

 なお、鎌倉幕府によって「失格」させられた二代将軍頼家の子たちは生き残ります。しかし、どうも頼家の子孫は将軍にせずに家系を断絶させる、というのが鎌倉幕府の方針だったようで、男子は全員が出家させられています。

 そのうちの公暁くぎょう(読みは「こうきょう」とも)が実朝を暗殺し、源氏の鎌倉将軍が断絶しました。


 源頼朝が平家打倒の戦いを始めなければ鎌倉幕府は成立しなかった。

 では、鎌倉幕府は頼朝が強い権力で統率していた組織かというと、そうとも言い切れないところがあります。

 鎌倉幕府は、関東の地元武士団の有力者が「御家人」というステイタスを持ち、合議体を構成して運営していました。

 「御家人」というのは鎌倉幕府の将軍を主君とする武士のことです。

 鎌倉将軍に仕えているから、有力御家人は幕府の幹部になれたのか?

 地元の武士団の有力者だから、幕府の幹部になれたのか?

 どうも、地元の関東でもともと有力だったから幕府の指導層を担えた、ということのようです。


 頼朝は「鎌倉将軍(鎌倉殿)の権威があって初めて成り立つ幕府」を目指しましたし、その路線は二代将軍頼家も受け継ごうとしました。しかし、その路線はさっさと挫折させられてしまいました。

 「将軍独裁」の組織にはならず、関東武士団の連合政権という性格のほうが強かったわけです。

 関東武士団の自治会ですね――と言ったらなんか軽くなってしまいますが。

 自治会の成立には、源頼朝がいて、反平家の戦いをいっしょに戦う、という「きっかけ」が必要だった。そうでなければ、関東の武士団はたがいに抗争を繰り返して一つにまとまることはなかったでしょう。

 でも、いったん成立してしまうと、幕府は、関東武士団の自治会として、将軍の権威に頼らずに動くようになった、ということではないかと思います。


 だから、もし「反平家の戦い」が必要なかったとして、鎌倉幕府は成立したのか?

 関東で名高い血筋を引く源頼朝が関東に流罪にされていなかったとして、鎌倉幕府は成立したのか?


 また、源頼朝が反平家の戦いを始めたとき、同母弟の源希義まれよしは土佐(高知県)にいて討たれています。希義が積極的に反平家に動いたかどうかはよくわかりませんが、希義にも平家打倒の意志があったとして。

 もし頼朝が失敗して希義が成功していれば、希義が四国の武士を結集して「土佐幕府」が成立したのか? それとも、頼朝がって立った場所が関東だから幕府ができたので、四国ではたとえ希義が成功していても幕府はできなかったのか?


 あるいは、一度は京都の支配権を握った木曽義仲よしなか(源義仲)が北陸へ逃げ延びることができていれば北陸幕府を樹立できたのか?

 北陸では幕府はできなかったのか?


 ようするに、「関東」って、また「関東の武士団」って、どれぐらい「特別」な存在だったんだろう?

 そういう問題があるんじゃないかと思います。


 で、このエッセイ、タイトルに反してなかなか南北朝時代の話に行かないのですが。


 建武政権は鎌倉に「鎌倉将軍府」を樹立していますし、北朝側の足利幕府も鎌倉府を樹立しています。

 関東が南北朝の戦いの焦点だったのはたしかです。しかも「鎌倉を中心とする関東」は、南北朝時代にも引き続き戦いの焦点でした。

 だから、鎌倉幕府ができたときに「関東」がどれぐらい「特別」だったか、ということは、南北朝時代の問題にも関わってくるはずです。


 もし、関東が「ほうっておけば武士団どうしの争いがつづいて結束しない」、「したがって関東武士団の自治組織も成立しない」ような土地、しかし「(反平家のような)結集の大義名分があり、また(頼朝のような)結集の中心になり得る人物がいれば、武士団が結集して自治組織を立ち上げ、しかもその自治組織が持続する」ような土地であるならば。

 関東の覇権を取りたい勢力は、関東に「結集の大義名分」を与え、また「結集の中心になり得る人物」を送り込もうとするでしょう。

 しかも、誇張表現だとしても、「武蔵と相模の武士が総力を結集すればほかの地域の武士が集まってかかっても勝てない」(『太平記』……だったはず)というくらいに関東の武士が強いのであれば、関東の覇権はぜひとも自分の側で取りたい。

 南北朝時代に、南朝も北朝もその他の勢力も関東で目指したのは、「結集の大義名分」を与え、また「結集の中心になり得る人物」を送り込む、ということだったんじゃないかな、と思ったりします。

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