第10話 「トップ」と「リーダーシップ」

 鎌倉幕府が成立したきっかけはともかく、その後、持続して行くうえで重要だったのは、「源氏将軍家」よりも「関東武士団の連合政権・自治組織」という性格だった。

 それは、源氏将軍が断絶しても、鎌倉幕府の組織自体は壊滅しないということです。

 「御家人」というステイタスを持つ関東武士団の有力者がその組織を構成しているかぎり、鎌倉幕府は崩れない。

 平家政権(「平氏政権」)のばあい、朝廷の組織に依存していたので、平家という存在が政権から転落したら平家政権自体が消滅してしまいました。それに対して、鎌倉幕府のばあい、源頼朝とその子孫がいなくなっても「関東武士団の有力者が結成した組織」そのものは残ります。


 「御家人」は鎌倉将軍に仕える武士たちで、そのたてまえからすると「鎌倉将軍がいなくなれば御家人は御家人でいられなくなる」はずですが、実際にはそうではなかった。

 「御家人」こそが鎌倉幕府の主役で、「御家人」に都合がよいように存在してくれるトップが鎌倉将軍だった、と言っていいのではないかと思います。


 実朝が暗殺された後、「頼朝の血筋」以外から将軍が迎えられるようになり、将軍の存在感は薄くなって行きます。

 では、もし「頼朝の血筋」が続いていれば、将軍は存在感を示し続けられたのか?

 「歴史のif」なので何とも言えませんが、よほど個性の強い人物が出ないかぎり、将軍の存在感はやはりしだいに薄くなっていっただろうと思います。


 源氏将軍家は、たしかに、関東でのステイタスは高かった。

 源氏将軍家は、清和せいわ天皇の子孫の「清和源氏」のうち、「河内かわち源氏」という一族に属します。

 河内源氏の祖は源頼信みなもとのよりのぶです。源頼信は関東で起こった平忠常たいらのただつねの乱を収拾し、関東武士団に信頼を寄せられた。続く源頼義よりよしと源義家よしいえは関東を拠点に東北での戦争(前九年合戦、後三年合戦)を戦います。

 しかし、頼信も頼義も義家も活動の拠点は京都にありました。清和源氏は全体として藤原氏のなかでも家格の高い「摂関家」とのつながりが深かったということです。

 義家のひ孫(もしかすると孫)にあたる源義朝よしともは、関東に拠点を置いて、弟の源義賢よしかたと勢力争いを繰り広げます。しかし、最後には京都で保元ほうげんの乱・平治へいじの乱の戦いを戦って(逃亡の途中に)命を落としています。

 その義朝の遺児が頼朝で、頼朝が鎌倉の源氏将軍家の祖となります。


 この流れに見るように、源氏将軍家は「もっぱら関東に根づいていた」勢力ではなく、京都の、朝廷・院との関係が強い勢力というほうが本質だった。関東にも拠点を持っていますが、京都のほうが活動の中心だったのです。

 むしろ、だからこそ、関東武士団のなかで高いステイタスが認められていた。

 だからこそ、トップに立ってほしい、と思われたのです。


 源氏将軍家だけでなく、その後の摂関家出身の将軍(鎌倉九条家の将軍)、親王将軍まで含めて、鎌倉幕府を構成する関東武士団の有力者としては「トップに立ってほしい」。

 なぜなら、トップのステイタスが京都政界でも認められるくらいに高いと、朝廷や院との関係で高い立場に立てるから。

 京都の貴族は、関東の武士たちを平気で「東夷とうい」とか言って軽蔑けいべつするわけです。つまり、「東のほう、都から遠いところに住み着いている、文化的程度の低いやつら」です。

 でも、摂関家や院と関係の深かった源氏将軍家のひととか、摂関家の九条家のひととか、親王とかがトップに立っていると、その組織をともかくも尊重しなければならない。

 だから、源氏将軍家、鎌倉九条家、親王などの将軍が鎌倉幕府のトップに立つことは求められた。


 しかし、「トップに立つこと」と「リーダーシップをとること」は別です。


 いまどきの世のなかでは、「他人ごとではなく自分ごととして考える」ということがだいじだと強調されます。

 しかし、「トップに立つのにふさわしいひと」が、つねにその組織の問題を「自分ごととして考える」ことができるかというと、そうとは限らない。

 逆に、その組織の問題を「自分ごととして考えられない」ひとをトップに持って来たほうが有利、ということもあり得る。


 しかし、自分らの問題を自分ごととして理解してくれないようなトップにリーダーシップまでとってほしいと思うか、というと?

 どうでしょう?


 まず、源氏将軍家の将軍たちが、関東武士団の問題を「自分ごと」として考えられたかというと?

 やっぱり、それはできななかったのではないか、と。

 また、有力御家人のほうで、つまり関東武士団の有力者のほうで「将軍は関東武士団の抱える問題をすごく理解してくれているからこのひとにリーダーシップを任そう」と思うほど信頼していたか、というと、そういう信頼はしていなかったのではないか、と(鎌倉時代の武士が「リーダーシップ」なんてことばを知ってるわけがありませんけど、それはそれとして)。


 だとすると、リーダーシップは、トップとは別に、自分たちのことを「自分ごととして考えられる」ひとにとってほしい、と思っても自然なのではないでしょうか?


 北条氏の本家が鎌倉幕府のリーダーシップを握ることになったのは、そういう理由からだろうと思います。


 もちろん、最初から「予定調和」的に北条氏にリーダーシップが委ねられていったわけではありません。

 政子が頼朝の妻だったこと、したがって北条時政ときまさが頼朝の妻の父として有利な立場にあったこと、時政、政子、義時よしとき泰時やすとき時頼ときよりとリーダーシップをとる資質に恵まれた人たちが次々に当主になったこと、大江おおえの広元ひろもと三善みよし(の)康信やすのぶなど鎌倉幕府の制度を支えた文官系の貴族と関係がよかったことなどが、北条氏がリーダーシップを確立できた理由でしょう。

 「え? 合議体なんだから集団指導体制でしょ? なんで北条さんだけが偉くなってるの?」と感じた有力御家人は次々に滅ぼされていきました。

 結果的に、北条氏に鎌倉幕府のリーダーシップが集中する。さらに、北条氏の本家の当主、いわゆる「得宗とくそう」にリーダーシップが集中することになったわけです。

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