第11話 「得宗専制」の事情

 第5代の執権となった北条時頼ときよりは執権途中で出家して引退します。

 そのとき、時頼が後継者とした時宗ときむねはまだ少年でした。現在だとまだ「未就学児」の年齢です。

 「鎌倉幕府の御家人に都合よいようにトップとして存在する」ことが役割の将軍のばあい、自己主張の強い大人よりも少年のほうが都合がいいわけですが、実際にリーダーシップをとる執権としては、少年を執権にするわけにいかない。

 そこで執権の地位は一族の長時ながときに譲られます。長時が病気のため執権を辞任した後は、一族の長老の政村まさむらが執権となります。


 ところで時頼は北条義時よしときのひ孫にあたります。長時は、義時より歳下で、ほぼ同年代ながら、世代的に見ると義時の孫で一世代上です。政村は義時の子なので時頼からは二世代も上です。

 こうなったのは、義時を継いで執権になった泰時やすときの子の時氏ときうじが執権に就任しないままに若いうちに亡くなったからです。本家(得宗とくそう家)だけ世代交替が早く進んでしまったのですね。

 だから、時頼は、執権に就任したときには満20歳にもなっていなかったし、病気で執権を辞したのも満30歳になる前でした。

 時頼は執権引退後に諸国(地方)を回ったという伝説があるので、「ドラマ『水戸黄門』のご老公のようなご老人だったのだろう」と思うと、ぜんぜん違うんですね。


 一方で、「本家は泰時流(つまり得宗家)であり、本家の当主(得宗)が権力を握るのが当然」という考えはこのあとも続いて行き、強化されることになります。それ以外の家の男子が執権に就任しても、それは「中継ぎ」または「表向きの看板」に過ぎない、という合意が北条一族のなかにできていたわけです。もちろん、何の摩擦もなく、というわけには行きませんでしたが。


 しかも、得宗に期待されるリーダーシップは時代とともに大きく重くなって行きます。


 そうなった事情を挙げるとすれば、やはり第一は「蒙古襲来」ということになるでしょう。

 鎌倉幕府は「関東武士団の連合政権・自治組織」なので、もともと基本的に組織しているのは関東の武士とその一族だけでした。

 承久の乱で鎌倉幕府の勢力が西日本にも拡がり、全国に御家人が存在する状況になりましたが、それでも国内には御家人になっていない武士もいました。

 ところが、大モンゴル(二度めの襲来時には「大元」の漢字国号が定まっていた)の襲来という事態を前に、「御家人か御家人でない武士か」、「北条氏に従う武士かそうではない武士か」とかいうことをいろいろ言っていられなくなり、「日本の武士は鎌倉幕府の指示で動く」ということになりました。鎌倉幕府は、「関東武士団の連合政権」にとどまらず、全国の武士を率いる組織としての役割を果たさなければならなくなります。

 その鎌倉幕府のリーダーシップを握っているのは北条氏であり、なかでも得宗なので、得宗の権力はそれだけ大きく、強くなります。

 大きくした、強くしたというより、そうならざるを得なかったわけです。


 しかし、蒙古襲来だけではないと思います。

 院政の時期から鎌倉時代という時期は、地元の領主という層が力を得た時代です。

 この時代、律令制が変形して運用されている「公領」(国司の管理する土地)や、貴族・大寺社の領地である荘園では、その領地に権益を持っている中央の上級貴族は赴任せず、その土地にいる者に管理を任せるようになりました。中央にいる領主(本家、領家などというステイタスがあります)とは別に、「地元の領主」が実質的に地方を管理するようになったのです。

 その地元の領主が、開墾を進めたり、馬を飼ったりして力をつけてくる。そして、この層から武士が生まれてくるわけです。

 北条氏、三浦氏、上総かずさ氏、千葉氏といった、鎌倉幕府を担う武士団もそういうところから生まれてきました。

 なお、「地元の領主」と言っても、皇族や藤原氏の一族、天皇の子孫から臣下になった家柄(源氏・平氏はそうです)など名門の子孫、または、実際にそうかどうかわからないけど「自分は名門の子孫だ」と名のっている人たちが中心になることが多い。

 ただ、そういう血筋でも、「地元の領主」になるのは中央での出世をあきらめたひとなので、いわば「地元で生きて行く」という覚悟を固めた人たちです。だから、このひとたちにとってはやっぱり地元で起こるさまざまなできごとが「自分ごと」である。そういう人たちです。


 地元の領主が力をつけてくる、ということは、その収益源である土地をめぐる争いも多発するということで。

 けっきょく、鎌倉幕府の仕事でとくに重要なのは、武士たちのあいだで多発する土地紛争をいかに効率よく公平に(つまり関係者からできるだけ不満が出ないように)裁くか、ということでした。


 鎌倉幕府が「関東武士団の連合政権・自治組織」の枠を超えてしまった以上、全国の「地元の領主」レベルの土地紛争は幕府に持ち込まれることになります。


 しかも、この時代には、商業とか流通とかいうのも活発になります。

 だいたい、大モンゴル帝国(~大元帝国)というのも、拡大したのは軍事的征服の結果ですが、それを支えたのはやっぱり大陸と海を行き来する商業・流通の流れでした。日本列島でのこの時代の商業・流通の発展も、そういう世界的な流れの一環だった。

 そう理解するのがいいんじゃないかと思います。

 それはそうで。

 「蒙古襲来」軍が、朝鮮半島から対馬つしま壱岐いきを伝って北九州というルートはともかく、いまの上海あたりから海を渡って北九州へ、というルートを取れたのは、そこを渡っていた商人とか海賊(武装商人)とかがあらかじめルートを知っていたからなんですよね。その「水先案内」がなければ大軍がそのルートを航行するというのは無理でしょう。

 GPSのガイドが使えるような時代じゃないんだから。

 一人の商人が東シナ海も瀬戸内海も航行する、というようなことがあったかどうかはわかりませんが、そういう世界的な商業・流通の活発化の直接・間接の影響を受けながら日本の海の商業・流通も盛んになっていったのでしょう。


 そういう理解があたっているかどうかは別として、商業・流通が活発化すれば、それを管理する必要も生まれるわけで。

 その商業・流通網に載って、北条氏の権力も全国に伸張していく。商業・流通にとって重要なところに、北条氏一族が、守護に就任するなどして権益を伸張させていく。北条氏が権益を握る土地は全国に拡がっていきます。


 権力で管理しなければならないものごとが増える。

 したがって、幕府が行使しなければならない権力も大きくなる。

 そして、その幕府の権力は得宗(北条氏本家の当主)が握っているわけですから。

 それは「得宗専制」と呼ばれるような強大な権力を握ることになりますって。


 ところが。

 社会から得宗に「握っていてほしい、行使してほしい」と求められる権力は大きくなる。

 しかし、得宗がはたしてその権力を使いこなせるか、というと、それは別問題です。

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