第8話 後醍醐天皇は最初から倒幕を目指していたのか

 南北朝時代の話となると、後醍醐天皇が即位したときから倒幕(討幕)の意志を強く持っていて――という話から始まることが多いのですが。

 ほんとに……?

 たしかに、最後には幕府を倒してしまうので、元弘の乱(1331年~)の当時の後醍醐天皇が倒幕の意志を持っていたのは確実でしょうけど。

 それ以前はどうなのか、です。


 1324年に後醍醐天皇は倒幕の謀略を行い、露見したが、天皇が強気の資正で弁明したため、幕府は天皇を処罰することができなかったとされます。これが「正中しょうちゅうの変」と呼ばれる事件です。

 ところが、21世紀に入って、「正中の変」は実際には後醍醐天皇の倒幕計画ではなく、後醍醐天皇と対立する勢力からこの事件が「後醍醐天皇の倒幕計画」だったことにされた、という説が提示されました。つまり後醍醐天皇は謀略の首謀者ではなく謀略の被害者だというわけです。

 現在は、この説を支持する研究者と、否定または無視する研究者に分かれているという印象があります。


 私自身は、「正中の変」謀略については後醍醐天皇は被害者だという説に説得力を感じています。

 後醍醐天皇被害者説の根拠のひとつに、もし後醍醐天皇が首謀者だとすると、一回めの謀略が1324年で、二回めが1331年となり、ここで7年も待った理由がわからない、ということが挙げられています。

 それに加えて、もし後醍醐天皇が謀略の当事者ならば、幕府が後醍醐天皇を在位させ、しかも権力を握らせ続けた理由がわかりません。院政だと「治天の君」の立場の上皇・法皇が政治権力を握るのですが、「正中の変」当時は院政ではなく、後醍醐天皇の親政で、天皇が政治権力を握っていました。

 倒幕の陰謀をめぐらせた天皇に、幕府がどうして権力を握らせておくのか?

 天皇自身が謀略に加わったという証拠がつかめなかったとしても、京都政界ではスキャンダルになったわけですから、「政治を混乱させた責任を取って退位してください」は言えたはずです。

 しかも、「在位10年ルール」があったとすれば、1328年にはその10年期限が来ます。たとえ1324年当時に「証拠不十分」で退位に追い込めなかったとしても、1328年には「10年経ったんだから退位して」は言えたでしょう。


 そうすると、今度は、幕府のほうの「弱さ」、または「無気力さ」ということが要因として考えられます。

 当時の幕府の最高権力者は北条氏の「本家」の当主でした。この立場にある人を「得宗とくそう」といいます。得宗が執権を兼ねれば執権が最高権力者ですが、執権は北条氏の分家から出ることもあります。その場合は、執権ではなく、執権に在任していない得宗が最高権力者になります。

 で。

 後醍醐天皇時代の得宗は北条高時たかときでした。「正中の変」当時は執権でもありました。

 この高時は、「ぜんぜんやる気がない(すこぶる亡気のてい)」とか評され、田楽(踊り)や闘犬が大好きで政務を顧みない「愚かな権力者」というイメージがあります。


 病弱だったのも、田楽や闘犬を楽しんだのも、同時代に近い時代に書かれた史料(文書資料)に出て来るのでたしかなようです。

 しかし、一般的に、政権を奪って成立した次の政権の時代には、前の政権の最後の権力者は悪く表現されるものです。そうしないと前の政権を倒した通らなくなるから。

 「前の政権の最後の権力者はすごくいい人でした」

 「じゃあ、あんた、なんでそのすごくいい人を倒して権力者になったの?」

……ということになって、あんまりよろしくありません。

 しかも、後醍醐天皇だけでなく、足利尊氏(高氏)も北条高時の政権を倒した当事者なので、南朝の立場からも、北朝・足利幕府の立場からも、高時は悪く書かれることになる。

 だから、高時の「暗愚さ」というのは強調されすぎている、と考えたほうがいいと思います。


 「正中の変」当時の北条高時が若いのはたしかで、ここまで出てきた邦良くによし親王、恒明つねあきら親王や、高時の形式上の主君に当たる守邦もりくに親王などとほとんど同世代、西暦でいえば1300年代前半の生まれです。

 この世代、ほんと割食ってるな、という……。

 高時は、「正中の変」のときには20歳になったばかりぐらいで、現在ならば大学生ぐらいの年齢です。後醍醐天皇は15歳ぐらい歳上ということになります。

 「たいへんやる気のある30歳台の教授」対「やる気のない学生」みたいな感じで、ちょっと相手をするのはたいへんなような。

 もっとも、後に、北畠顕家あきいえが「上奏文」を書き残したのも同じくらいの年齢ですけどね。顕家のそれまでの事績を考えると20歳が「若い」とばかりも言えないところはありますが。


 高時が「やる気のない若者」だとすると、「北条高時の率いる鎌倉幕府は、後醍醐天皇に対抗する力がなかったから、後醍醐天皇が倒幕(討幕)を目指しているのはわかっていたけれども手が出せなかった」ということになりそうな感じもするのですが。

 しかし。

 1331年、後醍醐天皇がほんとうに幕府を倒そうとして始めた元弘の乱のとき、一度は後醍醐天皇を隠岐に流し、その後も、「足利尊氏(高氏)が後醍醐天皇に味方しなければ負けなかった」という程度の強さが幕府にはあったのですから、高時の指導力のなさと、幕府全体の力は分けて考えたほうがいいと思います。

 また、邦良親王が皇太子のままで亡くなったあと、後醍醐天皇と、邦良親王の皇子である康仁やすひと親王を推す勢力と、持明院統とが、鎌倉幕府に対して熱心に後継者工作を行ったことが花園上皇(持明院統)の日記に出てきます。幕府に皇位を動かす力がなかったならば、だれも幕府にこんなに熱心に働きかけたりしなかったでしょう。

 高時の指導力がどうあれ、幕府には皇位を動かす力があった。

 ということは、私は、幕府と後醍醐天皇は「正中の変」の前も後も協調関係にあり、それが破綻するのは元弘の乱の直前だと考えていいのでは、と思っています。

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