第21話 ビューティフルかどうかはわからないけど

 名まえがかけがえのないものなのは、1979年(国際児童年)の子どもたちも、中世の武士たちも変わりません。

 いやあ。

 後醍醐天皇にまつわる話を書いていて、ふと、『45 Godiego 1976-2021』って本を手に取って読んでみたんですよ。

 ゴダイゴは(2021年で)結成45年ということなんですけど。

 もし後醍醐天皇が「建武45年」まで「新政」をやっていたらどうなっただろう、と思ったりするわけです。

 そのころには後醍醐天皇は90歳だったはずですが。

 でもミッキー吉野が70歳でがんばってるんだから、いいんじゃないでしょうか?

 ちなみに「建武45年」は機械的に計算すれば1378年、「ガンダーラ」がリリースされるちょうど600年前です。


 中世の武士のばあい、まず、子どものころにその家の嫡男の幼名を名乗れるか、若いころにその家の嫡男の通称を名乗れるか、という問題があります。

 家によるのかも知れませんが、有力な武士の家では、跡継ぎと目される嫡男が代々名のる幼名や通称が決まっていることがあります。時代は下りますが、徳川将軍家の嫡男の幼名「竹千代」とかですね。

 名乗れれば嫡男に認定されているということであり、名乗れなければ認定されていないことになります。家の跡継ぎになれるかどうかという重要な問題です。

 もちろん嫡男認定されていなくても挽回のチャンスはあるし、逆に嫡男認定されていても「廃嫡はいちゃく」(「武士の家に生まれたんだけど、跡継ぎ、やめさせられました」……なんか小説のタイトルになりそうだ)という可能性があるので油断はできませんけど。

 大人になって正式な名を名のるようになると、まずその家の「通字」を名のることができるかどうか、ということがあります。北条氏ならば「時」、鎌倉時代の足利氏ならば「氏」、千葉氏ならば「たね」という文字が入った名を名のれるかどうか。

 だいたい名のれるんですが、ばあいによっては、弟が兄の名を一文字与えられて名まえに通字が入らないとかいうこともあります。

 たとえば北条時宗の弟の宗政がそうです。得宗とくそう・執権の兄から「宗」をもらったかわりに、「時」は名のっていません。

 ただし、宗政は、時宗の主君である宗尊親王から直接に「宗」の字をもらった可能性もあります。だとすると、時宗が通字「時」を名のったのに対して、宗政は初代執権時政の「政」のほうを継いだことになり、「時」より下ではあるものの、そこそこ高いステイタスを得た、と言えるでしょう。


 後の時代では、室町将軍家の足利政知まさともは、将軍義政の兄でありながら、お母さんが正妻でなかったためか、弟の義政から「政」の字をもらって「政知」になりました。足利将軍家の通字「義」はもらえていません。

 「義」がつかないどころか、弟の義政から「関東がたいへんなことになってるから鎌倉行ってね」と言われてたいへん苦労することになります。

 ところが、室町将軍家として最後まで残った血筋は政知の子孫です。戦国時代の室町将軍家は義晴よしはる流と義維よしつな流(平島公方家)の二流に分かれますが、そのどちらも血筋としては政知の子孫です。

 わからないものですねぇ……。


 なお、鎌倉九条家のばあい、「頼」が通字ではなかったか、ということは前に書きました。


 時宗が宗尊親王から「宗」の名のりを許されたように、主君から名まえの一字を頂戴ちょうだいすることもあります。

 これができるかどうか、というところも重要です。

 原則として元服げんぷく(当時の成人式)のときに主君からその名の一字をもらうのですが、あとで一字を使うことを認められて改名することもありました。

 この、主君の名の一字を使わせてもらうことを「偏諱へんきたまわる(与えられる)」(偏諱は「かたいみな」とも)と言います。

 北条氏のばあい、実権はともかく形式的には将軍の臣下ですから、将軍から偏諱を与えられることが多い。

 九条頼経から「経時」、「時頼」兄弟、宗尊親王から「時宗」、守邦親王から「守時」、「邦時」などです。

 主君から偏諱を与えられる名族のばあい、名が「偏諱+通字」または「通字+偏諱」という構成になります。

 「経時」のばあい、「経」が主君からの偏諱で「時」が通字、時頼では順番が逆になって「時」が通字で「頼」が偏諱です。

 主君からの偏諱と通字で構成される名まえを名のれるのは一人だけですから、そのひとがその一族の当主ということになります。


 通字と偏諱の仕組みは、日本史を勉強するときに「同時代人で名まえが似ているのに別人物」という例を多発させることになり……。

 日本史受験の受験生を困らせる大原因ですね。


 主君からいただいた偏諱の文字を上に入れるかどうかで主君への敬意の度合いがわかる、とも言われるのですが、鎌倉時代からそうだったかどうかはわかりません。

 戦国時代になると、将軍足利義晴から「晴」の一字をもらって「武田信」(「信」は武田氏の通字です)、将軍足利義輝から「輝」の一字をもらって「伊達宗」と上につけることが普通になります。

 その前の室町時代の足利義満の時代、分家の鎌倉公方くぼう家では、足利氏満うじみつが当主となり、鎌倉公方の職を継ぎました。この氏満は、鎌倉公方家の通字「氏」と、京都の将軍からの偏諱「満」を名のっていて、主君からもらった「満」を「氏」の下に置いています。氏満は京都の幕府に反抗的な姿勢をとったので、「満」を下に入れたのを「義満の幕府を軽視していることの表れ」とみなすこともあります。ただ、氏満は、息子たちには、満兼みつかね満直みつなおなどと上に「満」の字を入れた名を名のらせています。だから「氏満」という名乗りに「義満と京都の幕府を軽視する」という意味を見いだしていいかどうかはわかりません。


 ところで、氏満の息子たちは義満から「満」の字をもらっていますが、親に氏満がいたため、だれも家の通字「氏」を名のれませんでした。

 親子で主君が同じばあい、主君から偏諱をもらわないか、通字を使わないか、ときには主君の家の通字のほうを偏諱で与えられるか、それともまったく別の名を名のるか、という選択になってしまいます。

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