第20話 「源氏将軍観」と足利氏(2)

 当時、日本の「氏」は男系で相続されます。だから、「女系で義朝の血を引いている」という九条頼経よりつねが将軍になったとき、「いやいや、源氏の本家はだろう!」と足利氏が将軍に立候補してもよさそうなのに、当時の当主の足利義氏よしうじはそんなそぶりも見せずに北条氏と協調しています。

 義氏は、女系をたどると北条時政ときまさの孫ですしね。


 この文章を書いていて思ったのは、「もしかして関東では女系の血筋も影響力が大きかったのでは?」ということです。

 もともと、人間社会、男系とは限らないわけで、男系社会、女系社会、それにどちらも重要性をもつ「両系」などいろいあります。

 京都の朝廷や院の世界では「父系」の絶対性が高くなっていたとしても、関東ではもしかして「女系」の影響力も強かったのではないか。だから、頼朝の子孫が絶えたとき、「女系で頼朝の父の子孫」を求めた、ということも考えられます。もともと「氏」は男系のみでしか受け継げないというたてまえですが、家業を守り抜くことを役割とする「家」は、婿養子のようなかたちで女系継承もありました。

 鎌倉幕府では、初代頼朝が亡くなった後も、妻の北条政子が将軍権力を行使する。息子の実朝が亡くなった後まで政子が夫の権力を受け継ぐのです。これは、当時の幕府の置かれた状況とか、政子の性格とか、政子が「執権家」の北条氏出身だったとかいう事情で説明されて来たような感じもあるのですが。

 どうでしょう?

 もしかすると、関東では、もしかすると女性の地位ってそういうものだった?

 男性の当主が健在ならば表に出て来ることはないけれど、当主が亡くなれば、そして後継男子がたとえば若すぎるというようなとき、「家」(政子のばあいは将軍家)の権力はその妻に移る。そういう地位だから、その血筋も、男系に次いで重視される。

 男系のほうが優先はされるけど、女系もそこそこ力のある「両系社会」?

 ほかの例が挙げられないので、ここではなんとも言えないのですが。

 だとすると、足利義氏のばあい、遠い「源義家の子孫」よりも、女系で近い「北条時政の孫」のほうがステイタスに影響を持った可能性もあります。


 女系の話をもう少し続けると、南北朝時代、朝廷でも女性権力者がたまに登場します。

 南朝では後醍醐天皇の妃であった阿野あの廉子れんしが「令旨りょうじ」を発しています。南朝の権力構造は具体的にわかっていないところが多いですけど、後村上天皇の母として廉子がある程度の権力を持っていた可能性もあります。

 北朝では、皇族がほとんど南朝に連れ去られるという非常事態の下ではありますが、光厳こうごん天皇の母の西園寺寧子やすこが院政を行う上皇(治天の君)の役割を果たしています。

 この時代、権力者の近くの女性でも、政治的にはまったく目立たないひともいて、よくわからないところはあるのですが。


 実際の足利氏を見てみると、「源氏の名家」というよりは「得宗とくそう家(または得宗家以外の北条氏のエリートの家系)と婚姻こんいん関係で深く結ばれた家系」として鎌倉幕府のエリートの地位を占めていた、という性格が強いことがわかります。

 また、足利氏(と新田氏)の祖となる源義国よしくには、保元の乱・平治の乱の前に頼朝の父義朝やその弟の義賢よしかたと関東の覇権をかけて対立していたことがあります。けっきょく、義国(新田氏を含む足利一族の祖)‐義康よしやす(新田氏と分離した後の足利氏の祖)は義朝と同盟関係になり、義賢を討ち取ってその勢力を関東から追い出しました。追われた義賢の子が木曽義仲よしなかです。

 ただ、足利義康は保元の乱などで活躍しているとは言っても、義国の代から荘園としての足利荘あしかがのしょうの開発に関わっています。「関東の地元の領主」、「関東の武士団」としての性格が強い。「京都とのつながり」がこの時代の「関東の河内源氏」の重要な資産であるとすると、義国‐義康は、「関東の河内源氏」の代表者というより、「関東の地元の領主」の有力者としての性格が強かったと言えるでしょう。

 それを考えると、足利氏は、義朝‐頼朝とは立場が違い、むしろ北条氏や三浦氏と同じ性格の「関東武士団の有力者」として頼朝と向かい合った。

 「鎌倉の源氏将軍家の後継者」というのとは、もともとは性格が違った、と、考えていいと思います。


 頼朝から言えば「父が義朝よしとも、その父が為義ためよし、その父が義親よしちか、その父が義家よしいえ(為義が義家の子という説もあります)」なのに、「義家が共通祖先」で分かれた家が「男系ではいちばん近くて有力」になってしまったのは、義親が反乱を起こし、その下の世代が保元の乱と平治の乱で勢力を失ってしまったからです。

 保元の乱では、為義とその男子の多くが崇徳すとく上皇に味方し、後白河天皇側の義朝は少数派でした。その少数派の義朝が勝利したために他の兄弟が処刑され、その系統が無力化した。そしてその義朝も平治の乱の敗者になりました。義親・為義・義朝の子孫で生き残った者もいましたが、荘園とか知行国とか官位とかの、武士として有力になるための収入源を失ってしまいました。恩賞を与えないと部下が戦ってくれないので、やっぱり収入源は必要なのです。

 そのなかで、新田氏を含む足利一族は関東に拠点を持っていたから勢力を保持できたわけです。

 それで、さらに、頼朝が「頼朝の子孫だけが鎌倉将軍になれる」というので、血縁の近い者たちを排除したりしたものだから……。

 だから、その「源氏鎌倉将軍家」が断絶すると、親王か、女系で義朝の血を引く九条くじょう家か、「為義流ではない義家の子孫」の足利一族(足利氏、新田氏)か……とかいうことになってしまうわけで。

 いやぁ。

 義朝‐頼朝親子がちょっとやり過ぎた感がありますねぇ。

 義朝のばあいは、まだ「朝廷の武力」だったので「助命嘆願たんがんが通らなかった」という理由が立ちますが、頼朝がもうちょっと男系の一族をだいじにしていれば……。


 それで「為義流ではない義家の子孫」にチャンスがめぐってきたわけです。

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