第22話 足利高義の名をめぐって

 そこで、あらためて、若いうちに亡くなった足利尊氏の兄高義たかよしについてです。

 なぜ「高義」なのか?

 足利氏の正統な後継者ならば、このひとこそが通字の「氏」を継いで「高氏」になるはずなのに。

 高義が通字の「氏」を使わなかったために、「高氏」の名が保留になり、弟が後継者になったときに「高氏」を名のったわけですけど。


 高義が後継者になることについて何か問題があったわけではありません。

 父の貞氏さだうじが健康状態に不安を抱えていたからか、高義はまだ十歳台とみられる時期に当主としての活動もしています。高義が若いうちに亡くなり、その後は貞氏が当主に復帰しているので、目立ちませんが。

 血筋の面でも、弟の高氏の母が北条氏ではないのに対して、高義の母は北条氏出身なので、高義は正統な後継者の資格を十分に備えています。

 なのに、なぜ通字の「氏」を継がなかったのか?


 理由として挙げられるもののなかに、「源氏将軍観」が高揚するなか、「氏」ではなく、清和源氏(河内源氏)の当主として「義」を名のった、というものがあります。

 そう考えるとしても、安達あだち泰盛やすもり平頼綱たいらのよりつなを相次いで切り捨て、一族との関係も悪化して基盤が脆弱になった得宗とくそう家が、足利氏を懐柔するために「清和源氏の当主」としての名のりを認めたのだ、とするか、得宗家の弱体化を見越した挑戦的態度で清和源氏の当主を名のった、とするかで、解釈も大きく変わってきますが。

 この時期、同じように、足利一族(源義国よしくにの子孫)の新田氏も、足利氏に倣って「氏」を通字にしていました。新田義貞の曾祖父、祖父、父はそれぞれ政氏まさうじ基氏もとうじ朝氏ともうじです。このうち義貞の祖父基氏の兄弟には「氏」のつく名を名のっている人物が多い。しかし、高義より少し歳下の新田義貞はやはり「氏」を名のっていません。

 この義貞の父朝氏も、1310年代には「朝兼ともかね」という名を使っていたらしく、「氏」の字を使わなくなっています。

 でも、それって……。

 朝氏から「朝義」への改名も可能だったのに「朝兼」としているのですから、「義」が積極的に採用された、というより、「氏」の字に人気がなくなったのでは?

 または、理由は不明だけど、「氏」の字に何か避けたほうがいい理由が生じた?

 そう考えたほうがいいと思います。


 「源氏将軍観」の高揚をそんなに大きな要素として見ることができるかは前に疑問を出しました。

 将軍の惟康これやす王は、源の姓を与えられて源惟康になっていたものの、将軍を辞める(辞めさせられる)直前に親王に復帰して惟康親王となっています。「源氏将軍観」を重視するひとは、惟康が源惟康だった時期、つまり源氏だった時期は将軍在職期間の大半を占めるのだから、「将軍は源氏でなければならない」という「源氏将軍観」が高揚したのだ、と主張します。

 しかし、だとしたら、「惟康親王は源氏でなくされることで将軍失格となり辞めさせられたのだ」という議論までは成り立つとしても、その後の久明ひさあきら親王と守邦もりくに親王がそれぞれ親王のままだということの説明がつきません。将軍は源氏でなければ、というのならば、「源久明」・「源守邦」にするはずなのに。

 また、「清和源氏の当主として「義」を名のった」ということについても「全面的に納得はできない」というところです。

 頼朝の鎌倉将軍家としての源氏ならば、「義」ではなく、頼家の「頼」、または実朝の「朝」でしょう。「義」は頼朝より前の河内源氏の通字です。

 摂家将軍の時代、鎌倉将軍家を「将軍家」らしくしようとして、その当主に「頼○」(頼経よりつね頼嗣よりつぐ)という名を与えたのではないか、という推測も前に書いたとおりです。

 だから。

 鎌倉将軍家で源氏なら「頼」だろう!

 その「頼」は名のらないけど、「義」は名のって「清和源氏の当主だ」と言う。

 「なんでそんなややこしいところを狙うの?」と思ってしまいます。

 この点は、しつこいようですけど、また後で採り上げます。


 ところで、高義も義貞も元服げんぷくしてその名を得たのは1310年ごろと推定できます。

 1310年前後に何があったかというと。

 1308年に鎌倉将軍が久明親王から息子の守邦親王に交替しています。1311年には、実権を握っていた北条家当主、「得宗とくそう」の北条貞時さだときが亡くなって高時たかときが得宗家の当主になっています。


 ここで、高義が高時から「高」の字を偏諱へんきとして与えられたのなら、たぶん貞時が亡くなって高時が得宗家の当主になってからで、つまり1311年以後ということになります。

 高義は1297年の生まれと推定されているので、1311年ごろには満年齢で14歳となります。当時はべつに法律で成年年齢が決まっているわけではありませんが、この時期に元服したとするとやや遅いという感があります。

 だいたい、もし高義が1297年生まれだとすると、高時が1304年生まれなので、高義が7歳も歳上です。もちろん主従関係は年齢に関係ないので、歳下から偏諱をもらっても不自然ではない。でも、歳下の若君が成長するのを待って、その若君が当主になってから偏諱をもらう、というのはどうでしょう?

 高時の元服は1309年です。直後に高義も元服して、まだ得宗家の当主ではなかった高時から「高」の字を与えられたという可能性もあり得なくはない。

 でも、当主ではない若君から偏諱をもらうというのも、やっぱりどうなのかな、と思います。


 そういうことを種々考え合わせると:

 「高義が先に元服して別の名を名のっていた→高時が得宗家の当主になった→そこで別の名を名のっていた高義が「高」の字の偏諱をもらって高義に改名した」

という流れが考えられます。

 そのばあい、高義が先に元服して名のった「元の名」は、当時の得宗である貞時から「貞」の偏諱をもらい、通字の「氏」と組み合わせた「貞氏」……にはできません。

 貞氏はお父さんの名まえだからです。

 それで、ここで、後に高義となる足利家の若君は「○義」(「○」は具体的には不明)と名のった。そして、高時が得宗家で当主になった後に高時から偏諱をもらい直して「高義」に改名した、それで高義には「義」の字が残った、という流れが考えられます。

 つまり、後に、弟の高氏が、後醍醐天皇から偏諱をもらい直して「尊氏」になったのと同じような流れです。

 ただ、偏諱で「貞」の字がもらえなかったとしても、「氏」の通字を名のることには差し支えはなかったわけで。

 ……やっぱりよくわかりません。

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