第13話 それで、「元弘の乱」とは?

 鎌倉時代を通じて、得宗が行使しなければならない権力は重く大きくなっていた。つまり「質量ともに増大していた」と私は考えています。


 時宗のときには、妻の実家にあたる安達あだち家の安達泰盛やすもりと、得宗の執事にあたる「内管領」の平頼綱たいらのよりつなが支えるという体制で「得宗専制」権力を使いこなすことができていました。


 しかし、時宗が亡くなって息子の貞時さだときが得宗になると、安達泰盛が平頼綱に滅ぼされ、それに続いて平頼綱が貞時に滅ぼされ、さらに北条氏一族の内紛(嘉元かげんの乱)が起こって貞時を支える体制はとても脆弱になってしまいます。

 何より、貞時がやる気をなくしてしまって酒びたりになったと伝えられています。

 貞時の息子の高時たかときの時代には、安達家の代表(安達時顕ときあき)と内管領(長崎円喜えんき高資たかすけ父子、平頼綱よりつなとは同族)とで得宗を支える体制が復活します。

 しかし、泰盛や頼綱のような強いリーダーシップは期待できる情勢ではなかった。

 だいたい、安達一族からすれば「すんでのところで内管領の平・長崎一族に絶滅させられそうになった」、内管領の長崎家からすると「頼綱は得宗家のために貢献したのに、得宗家に滅ぼされた」というわけで、相互不信は深かったはず。

 時宗の時代のように一致して得宗を盛り上げようと言ったところで、なかなかそうは行かなかったのではないかと思います。

 だから得宗を支える体制は脆弱なままです。

 けっきょく、高時には、「得宗とくそう専制」に期待されている権力が大きすぎて使いこなせない……ということだったんじゃないですかねぇ?

 執権に就任したときにもう「え? こんな権力を使いこなさなければいけないの? で、それを実行する体制は? 体制が脆弱ではこんなのできるわけないじゃない!」という状態だったのが、高時が「ぜんぜんやる気がない(すこぶる亡気のてい)」と評された理由だったのではないか、と思うのです。


 得宗が「鎌倉幕府に求められる専制権力」を担いきれないのならば?

 たとえば、平頼綱が、朝廷を後深草ごふかくさ院政‐伏見天皇‐皇太子胤仁たねひと親王(後の後伏見天皇)に固めさせ、将軍惟康これやす親王を理由もよくわからないまま京都に追放して新しく持明院統の久明ひさあきら親王を招くという「持明院統シフト」を敷いたのも、持明院統の下で院・朝廷の権力を統一させ、得宗の北条貞時さだとき専制体制を補完しようとしたからでしょう。

 得宗に求められる大きくて重い専制権力を、院や朝廷にも分担してほしい。

 少なくとも、得宗がその専制権力を行使するのに、院や朝廷が協力する体制をとってほしい。

 そういう意図だったのではないかと思います。


 院や朝廷の側も、後嵯峨ごさが院政の時代から、幕府と平行するような改革を進めていました。評定衆ひょうじょうしゅう制度の導入、訴訟制度の改革や荘園を管理する記録所の再興などです。これは、後嵯峨院政を継いだ亀山院政の下でも継続され、大覚寺統の亀山上皇から持明院統の後深草上皇へと「治天の君」(院政を行う上皇・法皇)の地位が移動しても続きました。

 これは、もともとは、幕府の側が、(後鳥羽上皇時代のような)院政の専制化を止め、院・朝廷を「得宗専制」のパートナーにしておくために行わせた改革だったはずです。

 しかし、院や朝廷の制度がアップデートされて、その時代の社会の問題に応えていく体制を整えれば、それは幕府にとって脅威になります。

 幕府がまだ「関東武士団の自治会」でとどまっていれば「関東は幕府、院・朝廷は西のほう」という分担ができたのでしょう。でも、幕府は、承久の乱後、「全国政権」へと向かっていました。ですから、院・朝廷が時代に適合する体制を整えると、幕府にとっては「有力な協調のパートナーが登場した」という面と「ライバルが登場した」という面の両方が出て来るわけです。


 この平頼綱の「持明院統シフト」も、持明院統の院・朝廷が改革を進めると順調には行かなくなります。幕府としては「伏見天皇(のち上皇)が倒幕を図っているのではないか?」という疑惑を持つようになります。それと関連して「持明院統政治」を支えた京極きょうごく為兼ためかねが処罰されています。そして、皇統は大覚寺統の後宇多こうだ院政‐後二条天皇に変わります。

 「持明院統は幕府べったり」みたいな印象がありますが、そうとは限りません。少なくとも幕府は、持明院統に対しても「もしかして倒幕を図るのでは?」という疑惑を持ち続けていたのですね。


 しかも、大覚寺統の後宇多院政‐後二条天皇、持明院統の伏見院政(途中から後伏見院政)‐花園天皇、そして後醍醐天皇と、「迭立てつりつ」になっても、この改革の流れは続きます。それが、建武の新政での記録所再興や雑訴決断所ざっそけつだんしょ設立へとつながって行くわけですね。

 いやぁ。すごく華々しく対立してる反対党に政権交替したのに、よく見たら政策が連続してるぞ、なんだこれ?――みたいなことが、あったわけですねぇ。


 「得宗専制」だけでは、そこに集中する大きくて重い権力への期待を担いきれない。だから、院・朝廷をその権力行使のパートナーとして成長させようとする。しかし、それは「もしパートナーが離反したら?」という可能性と常に一体だった。


 私は、後醍醐天皇と北条高時の関係もそんな感じだったと思っています。

 「専制権力」に集中する期待を分かち合い、「専制権力」を協力して運用する関係。

 「専制」は一人に権力が集中することですから、「専制権力を協力して運用する」はへんですけど、得宗体制だけではそれを担いきれないのですから、そうするしかないわけです。

 だから、私は、後醍醐天皇と北条高時は、後醍醐天皇が倒幕へと動く「元弘げんこうの乱」までは「緊張関係をはらんだ協調体制」だったと見るのがいいと思っています。


 さらに、得宗を中心とする「専制権力を運用するための協調体制」は、得宗家と婚姻関係で深く結ばれた名族にも及んでいたと私は考えています。

 足利氏です。

 つまり、後醍醐天皇‐北条高時‐足利貞氏さだうじ高義たかよし・尊氏・直義ただよしの父)は、元弘の乱まで、概ね西暦1320年代のあいだは「専制権力を運用するための協調体制」にあったのではないか。


 元弘の乱は、この協調体制の崩壊によって引き起こされた。

 「専制権力を運用するための協調体制」の内部分裂が元弘の乱だ。

 ――私はそう考えているのですけど……。


 やっぱ、ダメですかねぇ?

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