【番外編】僕が君に恋した日

 初めて渚くんの瞳を見た時、どうしようもなく独占したいと思った。黒真珠の様な艶めきと危うさを持ったその瞳に恋したんだ。

 君は何に怒りを感じているのだい?

 君は何を望んでいるの?

 君の心を僕に見せて欲しい。

 そう思った時、既に僕は、

「君、綺麗な瞳をしているね」自ずと彼を誘っていた。


 芸術家の交流を深めるパーティ。陳腐で安っぽい、返って自身の感性が侵食されてしまいそうな、そんなパーティで僕は春日井渚くんを見つけた。


 彼は口を固く結んだまま、煩わしい前髪の隙間から僕を敵方と捉えた様で鋭く睨んでいた。

 かと思えば、

「お前の方が綺麗だろ」と褒め返してくる。

 ああ、彼は雰囲気に似合わず愛らしい人なのだなと思った。

「君の作品、読んだよ。あまり言葉にこだわりがないから、普遍的な事しか言えないけれど、面白かった」

「…そうか」

 彼は視線を泳がせながら、素気なく言った。手がそわそわとポケットの膨らみを確かめている。

 すぐに察した。

「どうぞ」

 僕は胸ポケットからジッポを取り出し、彼に火をかざした。彼は初めこそ驚いた表情を浮かべたが、徐にタバコを一つ取り出し、口に収めた。

「すまねぇ」

 そう言って、僕の手先に顔を近づけた。その時、下を向いた長いまつ毛と鼻根から真っ直ぐ伸びた鼻筋に僕の目は囚われた。

「お前も吸うのか」

 彼は口端から煙を吐きながら言う。僕は横に首を振った。ジッポを手中で転がしながら、

「僕は吸わない。これはパトロンが忘れていったものだ」

 嘘偽りなく、素直に答えると彼は笑った。鋭い瞳が柔らかになったその一瞬、僕の心は堪らなく、彼を欲した。

「僕たち、仲良くなれそうだね」

 君と親しくなりたい。そう一言口にしまえば、返って彼は僕を遠ざける様な気がした。だから、直接的な言葉ではなく、曖昧な、街で見かけたら声をかけてよ、ぐらいの軽い気持ちで一言呟いた。

 案の定、彼は、

「ああ、そうだな」と微かな笑みを浮かべた。



 ***



 久しく彼と顔を合わせた時、あまりの眼光の鋭さに胸がぞわぞわと掻き乱されたのを僕は忘れない。

 初めから、彼の顔が健康的だとは思わなかったが、久しく目にした彼は頬がこけて黒く、節々の骨が飛び出ていると思ってしまうほどに貧弱になっていた。

 ただ、背丈は僕と変わらず、縦に長く、死神の様であった。


 何があったの、と問いただす必要はなかった。彼と顔を合わせなかった期間、彼の事を知る為に書店に足を運び、彼の存在を認めていた。

 しかし、少しずつ彼の存在が薄れ、シャボン玉が弾ける様に彼の存在が消えた時、ようやく僕は彼と直接顔を合わせた。


 彼は絶望の淵に立っている。けれど、それは僕にとっては好都合だった。

「良いバイトあるけど、どう?」

「…どんな」

「僕の作品のモデルになってよ」

 彼は考える様に口籠る。しかし、判断材料も何も彼にはないのだろう。

 すぐに、

「そんなで良いのか」と言った。

「ああ」

 僕はワントーン声を上げた。既に彼が僕の手中にあると勘違いしたんだ。けれど、すぐに彼は僕の手に収まった。

「わかった」

 そう一言呟いた。

 そして、僕は彼の力なく落ちた手を握りしめた。



 ***



 夢に見ていた彼の背中がようやく目前にある。堪らなくなって、白乳色の肌を舌で撫でると、

「お前…!待て!」

 彼は肩を跳ね上げ、振り返った。恐怖とも怒りとも捉えられる複雑な顔をしていた。

「モデルなんだろ!?」

「そうだよ」

「なぜ触る」

 彼の浅はかさと一方的な怒鳴り声が少し癪に触った。けれど、彼は雨に濡れた犬なのだ。可哀想な彼を突き放すわけにはいかない。

 だから、僕は優しく、諭す様に言った。

「言ってなかったね。僕はね、物体に触れて、感じて、ようやく形作ることができるんだ」

「お前、騙したな」

「何を言ってるのだい。騙していないさ。それなりの報酬は与える」

 警戒心剥き出しの彼が返って可愛らしい。

 彼は今、癇癪かんしゃくを起こした自分に後悔している。後戻りできない状況に唇を噛み締め、僕から一言、救いの言葉を待つことしか出来ないのだ。

「君、明日をどう生きるつもり?もう、僕に縋るしかないんじゃないかな」

 彼の耳元にそっと口を寄せた。

「大丈夫。優しくするよ」

 彼は僕に救われた。

「わかった。好きにしろ」

 そう言って、一つ舌打ちした彼の生意気な態度に教えてあげなければならない。

「じゃぁ、とりあえず、口、開けて」

 彼が自ずから口を開ける前に、僕の指先は彼の口をこじ開けた。唐突に侵入した他者の指を簡単に受け入れる事が出来ないらしく、彼はむせ返る。

 僕は構わず、彼の口内を荒く撫で回した。

 涙で潤む瞳が黒い艶めきを一層強くした。自然と僕の頬は緩む。

「まずは君の口から」

 彼と共に作り上げる、Iシリーズの始まりだ。まずは彼の牙を抜いて、大人しくしてから最後には心を象りたい。




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