恋に臆病なオジサンの落とし方
今衣 舞衣子
Spring
うららかな春
艶めく紅を引いた唇が言った。
「佐吉。この震える手を握って」
「ああ、共に地獄へ行こう」
佐吉は菊之助の手を離すまいと強く握った。
これが火消し屋、佐吉と歌舞伎役者、菊之助の最期の夜であった——。
カタカタとリズミカルに跳ねるキーボードの音が止んだ。ゆるりと舞い落ちたひとひらの花びらを長く骨張った指先が摘みとる。
形の良い桜の花びらをまじまじと見つめる切長の瞳は左方にある庭を捉えた。庭園には桜の木が一つ、春の到来を喜んでいるかの様に満開に咲いていた。
「ついに佐吉と菊之助の物語が終わってしまった」
はぁ、と吐息をつく男、
作家名、
「はぁ」
晶はもう一度息をついた。42歳を迎えた男の吐息は哀愁が漂う。
片肘を立て、無駄な肉がない頬を預けた。彼の切長な瞳は俯き、筋の通った鼻には光が当たる。年中、家にこもっている為、肌は皺やシミが目立たず、年齢を感じさせない。しかし、身に纏う灰色の着物が彼の渋みを滲ませている。
いわゆる、味のあるおじ様だ。
晶は映画のエンドロールに浸る様に暫し沈黙に身を置いた。
すると突如、ガラガラと玄関口の引戸の音が響く。
「おじさん、ただいま〜!」
青年期の
(まずい、一樹だ…!)
晶は素早くパソコンを閉じ、立ち上がった。そして、ふらふらと部屋を歩き回る。
人は隠し事があると挙動不審になるという。まさに今の晶の焦り様はそれだ。
「おじさん、そんな慌てて何してんの?」
そう言って、晶の前に現れた学ラン姿の青年、
「おお、一樹、おかえり。何ってアレだ。ストレッチ」
最近腰が痛くてな、と伸びをして見せる。明らかに不自然な動きをする晶の脇腹を一樹の肘が突いた。
「昔から猫背のくせにっ」
「ははは」
晶はわざとらしい笑みを浮かべ、脇腹を抑えた。すると、一樹が口を尖らせながら言う。
「おじさん、背高くて羨ましいなぁ」
普段丸まっている晶の背中が今はピンと伸びている。背比べする様に一樹の手が晶の無造作な黒い髪に触れた。
「そんなに低いわけじゃないだろ」
「うーん」
晶と一樹の身長差はおおよそ10センチあり、一樹の茶色い瞳は晶を上目遣いに見つめる。まるで子犬の様な眼差し。晶は一樹の栗色のクルクルとした髪を荒く撫でた。
「わぁぁ」
「まだ成長期だ。伸びるだろ」
ベトベトだ、と顔を渋らせる。
一樹は指先で髪を整えながら「らんぼう〜」と声を上げた。
ワックスのヌメりを帯びた手を流す為、晶は台所へ向かった。そんな晶の後に続いて、一樹は「ご飯食べた?」と首をかしげる。
「あ、忘れていた」
そう口にすると同時に空腹を知らせる音が鳴った。思い返したところ晶は今朝から何も食べていない。執筆活動に夢中になると他のことが手付かずになるのである。
一樹は、呆れた様にため息をついた。
「はぁ、まただぁ?おじさん、人に言われないと気づかないからなぁ」
まぁ分かってたけど、と一樹は手に持つビニール袋をチラつかせた。この家に来る途中のスーパーで買った食材だ。
「炒飯でいい?」
「ああ。すまない、ありがとう」
一樹は学ランを脱ぎ、下に着ていたパーカーの袖を捲った。そして晶の隣で手を洗う。
「今さら何言ってんの。おじさん、俺がいないとダメだね〜」
傍らに立つ晶を上目遣いに見つめる丸い瞳は
晶は椅子に座り、台所に立つ一樹の背中を眺めた。一樹は器用にフライパンを揺らしている。昔は足台が無ければ顔を覗かせる事すら出来なかったが、いつの間にか両足を床につけ、台所に立つ様になった。その成長に少し泣きそうになる。
「はい、出来たよー」
白い皿に盛られた炒飯は、ほくほくと湯気が立っており、黒胡椒の香りが鼻腔をくすぐる。
「ネギたっぷり、にんじんも刻んで入れたからね」
「栄養の事も考えていただき、感謝です」
そう言って晶は手を合わせた。一樹も正面に座り、手を合わせる。
「いただきます」
晶は口に炒飯を頬張りながら言った。
「クラスどうだった?」
すると一樹も口に炒飯を含みながら「うーん」と唸る。
「まぁ楽しいと思う」
「そうか」
今日から新学期が始まったと言うのに、じじいの家に来るなんて変わったやつだな、と晶は心に思う。
「それにしても、もう高3か…」
晶はぽつりと言葉を溢した。
晶が一樹と初めて対面したのは一樹が5歳の時だった。12年前、突然押しかけてきた幼馴染、
「あっくん!お願い!今日だけで良いの!」
「無理だ。俺は子供の世話をした事がない」
「大丈夫!うちの一樹良い子だから!ね!一樹?」
そう言って郁子は脚に抱きつく一樹を無理矢理に引き剥がし、晶の脚元へ押す。
第一、子供がいる事すら知らなかった晶は、加えてシングルマザーになったと言う郁子に唖然とするしかなかった。
「じゃあ!夕方4時!う〜ん5時前には迎えに行くからね!」
「ちょ、おまっ!待っ!」
引き留める隙もなく、郁子はスーツ姿で駆け出した。
休日だというのに出勤を余儀なくされる郁子が気の毒だと思いつつ、見知らぬおじさんの家にひとり置いて行かれた一樹の方が一層気の毒だと晶は思った。
その後、夕方5時過ぎに帰ってきた郁子は一樹を連れて家に帰ったものの、それ以来、毎日の様に晶のもとへ一樹を預ける様になったのだ。
「感慨深いなぁ」
炒飯の黒胡椒のせいか、鼻がスーッと痛み、涙腺が緩む。そんな晶の前で一樹は無邪気な笑みを浮かべている。
「俺、こんな立派に育ったよ、どう?」
「どうって」
「カッコ良くなった?それとも可愛くなった?」
ひょこひょこと首を振る一樹に、晶は静かに笑った。
「俺から見たらお前はどっちも供え持ってるよ」
「あはは〜やったぁ」
一樹はヘラヘラと笑う。
晶は今一度、一樹をまじまじと見た。正直、かっこいいと可愛いだったら圧倒的に可愛い要素が強い。小学生時代は少年野球チームに所属していた為、肌が褐色に焼けていたが、中学に上がってからは野球を辞め、色白くなった。髪や瞳の色素は元から薄く、ぱっちりとした二重と綻んだ時に垂れ下がる目尻も、男女問わず皆が心惹かれるであろう。
加えて、面倒見の良い明るい性格だ。きっと学校内でモテているに違いない。自身の学生時代と比べて羨ましい気がしたが、不思議と誇らしい気もする。
「親心ってやつかな…」
「ん?なにが?」
思わず溢れてしまった言葉に一樹が首を傾げる。
晶は自然な会話が続くように、
「進路とかどうするんだ?」と問いかけた。
すると一樹のスプーンを持つ手がピタリと止まる。しかし、すぐに炒飯を一口掬い上げた。
「やっぱり就職かなぁ」
ほんの僅かな一樹の動作で晶は気づいていた。きっと本心ではないのだな、と。
「大学とか専門に行きたいと思わないのか?」
「ん〜、大学行ったら遊んじゃいそうだし、専門いって身に付けたいこともないし」
一樹は笑いながら言う。しかし、無理して笑顔を作っている様である。
「そうか…」
「それに母ちゃん、楽にさせたい」
その言葉は一樹が切実に思う本心であった。5歳の時から母、郁子の苦労を目の当たりにしている一樹は就職し、自身でお金を稼ぐ事で郁子の負担を減らしたいと思っている。
「一樹。俺は自分のやりたい事をやるべきだと思うんだ」
晶は一樹が望むならば、大学だろうと専門だろうと学費を全て負担して良いと考えている。
しかし、一樹は首を振る。
「俺がやりたい事っていうのが母ちゃんの負担を減らす事なの。俺、別に勉強好きなわけじゃないし、高校入ってからバイトして働くの楽しいなって思ったからさ、早く就職したいんだ」
晶には一樹の言葉が強がりにしか聞こえなかった。勉強が好きではないというが期末テストではいつも上位の成績だ。確かに高校一年からやっているレストランのキッチンバイトも楽しくやっているそうだが、本当にそれが一樹の本心なのか。
晶は、人に苦労をかけまいとする大人ぶった一樹の心を砕いてやりたいと思った。
「よし、一樹。ここまで立派に育った。何かおまえの願いを叶えたい」
「えっなんで頭下げるの!?」
突然、背筋をしゃんと伸ばしたかと思えば、驚くほど綺麗に背中を折り曲げた晶に一樹は目を見開く。和服姿でお辞儀とは中々に威厳を放つ。
「俺に甘えろ」
今日まで私腹を肥やすこともなく、両親の遺した古びた日本家屋に住み続けた晶は、初めて誰かの為に全財産を費やしてまで尽くしたいと思ったのだ。
「本当に?」
一樹は恐る恐る聞いた。晶はごくりと息を飲み「ああ」と返事する。
「なんでも!?」
卓に両手をつき、前のめりに迫る一樹。パーカーの紐が炒飯に刺さっている。
「ああ、俺に出来ることなら」
晶は少しだけ不安になった。ここまで念を押すとは、一体何を望んでいるのか、見当もつかない。
一樹は後退し、晶と同じ様に背筋をしゃんと伸ばした。
「じゃぁさ…」
「うん」
互いに熱い眼差しが真っ直ぐと交わる。
一樹はごくりと息を飲み、一息に言った。
「俺と付き合って!」
「うん…あ?」
晶は危うく頷きそうになる。しかし、どうも理解するのに時間を要する言葉だと思った。
「ちょっと待っ」
「あと、同棲して…?」
目の前で首を傾げる一樹を晶は唖然と見つめた。しばらくの間、沈黙が流れる。すると、その沈黙を破る様に一樹が吹き出した。
「あはは、おじさん、ご飯粒ついてる〜」
一樹は晶の口端に着いたご飯粒を摘まみ取り、口に放り込んだ。
無邪気に
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