Summer

真夏の日差し

 炎天下の昼下がり。蝉の鳴き声が耳をさす駅のホームでは、数少ない人々が皆、日陰に身を潜めていた。

 眞琴は首筋に伝う汗をタオルで拭った。いくらショートヘアといえど、汗は止めどない。白のVネックTシャツに黒スキニーと至ってシンプルな格好ではあるものの、すらりとした彼女が着こなすと格別に感ぜられる。

 ふと、眞琴は腰に手を当てた。ずっしりとした重みが襲いかかったのだ。 ベンチに目配せるが、腰掛けたいとも思わない。

 眞琴は、はぁ、と一息ついた。

 (薬を飲んで来るべきだった)

 なんとか乗り切れるだろう、と甘んじたのが良くなかった。ズキズキと腰の辺りは痛む。さらにドロリとした触感に自ずと眉が険しくなる。

 これから夜9時までバイトだ。朝から食欲も湧かなかった。休憩時に賄いを食べようかと考えているうちに蝉の鳴き声が遠くに感じた。

 次第に視界はぼやけ、冷や汗が顔面に浮かぶ。

 (やばい、貧血だ。倒れる…)

 意識が飛ぶ寸前のことだった。傾いた体が誰かの手によって支えられている。眞琴はゆっくりと瞼を持ち上げた。

「大丈夫ですか?」

 落ち着いた紳士の声だった。眞琴の視界に写る端正な男性の顔立ち。おそらく歳は40前後であろう。しかし、皺やシミが無く、実年齢よりも若く見える。強いて言えば、身に纏っている着物が霞んだ色味で妙に貫禄を感じた。

 和装紳士の腕に抱かれた眞琴は「はい」と朧げな意識で答えた。


「すいません、ありがとうございました…」

「いいえ。今日は一段と猛暑日ですから、無理のなさらない様に」

 和装紳士に運ばれ、ベンチへと腰掛けた眞琴。その手には冷えたペットボトルが握られている。

「お水までありがとうございます」

 熱中症でバテたのだろうか、と和装紳士は真琴を出来る限り介抱した。

「ここは日陰になっているから少し休んでから体を動かしてください」

 そう言って和装紳士は眞琴の顔色を伺う。眞琴は恥ずかしそうに俯きながら

「よく支えられましたね」と呟いた。

「ああ…まぁ君は他の女性より背がすらり高いかも知れないが、その分細いから軽かったよ」

 落ち着いた声色が心地良く眞琴の耳に入っていく。それは蝉の鳴き声が気にならなくなるくらいのものだった。

 すると突然、

「すまない!」

 和装紳士は声を上げた。眞琴は思わず顔を上げ、目を見張る。

「このご時世、不快な発言になってしまったかもしれない!」

 すまない、と丁重なお辞儀をした。目の前で頭を下げる紳士に眞琴は慌てた様子で

「いえいえ!謝る事ないです!私から振っちゃったので!」

 ぺこぺこと頭を下げた。

「実は以前も電車の中で倒れそうになっちゃって…その時、吊り革につかまってたんですけど、耐えられず、隣に立っていた男性を巻き込んでしまったんです」

「そんなことがあったんですね」

 はい、と眞琴は頷く。

「でも、今日は助けていただいてとても助かりました。本当にありがとうございました」

 眞琴は立ち上がり、頭を下げた。改めて和装紳士の前に立つと、その背丈が自分より10センチ程高い様に感じた。

 (この人だったから、助かったんだ…)

 和装紳士を見つめる眞琴の瞳は揺らめいていた。

「いいえ」と和装紳士は首を振る。一つ一つの仕草が繊細で滑らかだ。

「では、これで」

「あの…!お、お名前とか連絡先!教えてくれませんか!?お礼したいんです!」

 眞琴は和装紳士の背中に叫んだ。すると、紳士は顔だけ振り返り

「ただの通りすがりですので、礼には及ばず」

 そう言って軽く会釈し、去っていった。

 眞琴は自分の左胸に触れた。蝉の鳴き声より心臓の音が勝っていた。



 ***



 キッチンからホールに目をやると、客の数はまばらであった。昼食時を過ぎた為か、ほとんどの人がティーカップを片手に談笑をしている。

 一樹はキッチンカウンターに寄っかかり、ホールに目を向ける眞琴に

「臼井さーん?」と声をかけた。

 しかし、眞琴はぴくりとも反応しない。

 (聞こえてないのかな?)

 一樹はもう一度声を上げた。

「臼井さーん!!!」

「わっ!」

 眞琴は大きく肩を跳ね上げて振り返った。

「ごめん!ぼーっとしてた!」

 目を丸くする眞琴に一樹は微笑んだ。

「臼井さんがぼーっとしてるの珍しいね」

「本当、ごめん」

 眞琴は恥ずかしそうに髪をかいた。

 体調は比較的安定していた。ホールを駆けていると腹痛や腰痛は忘れてしまう。しかし、未だ駅での出来事が忘れられないのだ。

 ――あの和装紳士はどこに住んでいるんだろう?

 ――どんな仕事をしているの?

 ――いくつ?恋人は?結婚は?

 眞琴の頭は和装紳士の事で一杯であった。

「なんか、悩ましげだね」

「佐野は人の感情に敏感すぎ」

 眞琴はホールに体を向けたまま、首だけを僅かに一樹の方へ向け、苦笑する。

「えへへ、エスパー佐野です」

「なんか、嫌」

 眞琴は真顔で言った。しかしその後、吹き出す様に2人は笑い合った。

 するとカランコロンと入店を知らせるチャイム音が鳴る。

「いらっしゃいませー!」

 眞琴は足早に駆けていく。その間に一樹はお冷の準備をする。接客時における連携プレイだ。2名の男女客だった。


「あれ、眞琴?」

 その客のうち、女の子の方が眞琴の顔を確かめる様に上目遣いに首を傾げた。切り揃えた前髪が丸く大きな瞳を強調させている。

 眞琴は唖然とした。中学卒業以来、一度だって顔を合わせたいと願ったことのない、眞琴にとってトラウマとも言える存在が目の前に現れたのだ。

「やっぱり眞琴だ!久しぶり!私!結愛ゆあ覚えてる?」

 結愛はぴょんぴょんとうさぎの様に跳ねながら眞琴に迫る。

「久しぶり」

 眞琴は微かな動悸を落ち着かせ、挨拶を交わした。自分でも分かるくらいに顔が上手く笑えていない。

 彼女の目から視線を逸らす様に俯くと露出した胸元が動悸を激しくした。

 ――眞琴、触っていいよ。

「中学卒業以来だね!眞琴、全然変わってなくてすぐに分かった!」

 結愛は再会を喜ぶ様に眞琴の手を握った。

 ――だって眞琴、男の子なんでしょ?

 眞琴の手が酷く震えている事を結愛は気に留めず、連れに眞琴を紹介した。



 ***



 時計の針がカチカチと揺れる音が響く事務所で眞琴は机に突っ伏していた。すると、ガチャリと扉の開く音が重なる。

「臼井さん、おつかれさま」

 一樹だった。21時を少し過ぎた頃であった。

 眞琴はゆっくりと顔を上げ

「佐野。おつかれ」と静かに呟いた。

 一樹は眞琴に背を向け、エプロンを外し、帰りの支度をする。

「あの時、お冷代わりに持って行ってくれて、ありがとう」

 一樹は手を止め振り返る。不安げに眉を下げる一樹に眞琴は微笑んだ。一樹を心配させない為か、無理して笑っている様に見える。

「顔真っ青だったけど、大丈夫…?」

 キッチンからホールを覗いた時、客が眞琴と親しげに話す姿から、またいつもの様に眞琴へ焦がれている子の1人であろう、と一樹は思った。

 しかし、キッチンへ戻ってくる眞琴の顔は酷く発汗しており、さらに手も酷く震えていた。

 (臼井さんとあの子の間に何かあったのだろうか?)

 一樹は詮索しようとは思わなかった。もし、自分が眞琴の立場であったら、下手に踏み込んで欲しくない。

「うーん、大丈夫じゃないかも」

 眞琴は初めて、一樹に弱音を吐いた。一樹もこれまで目にしたことのない眞琴の姿に驚いた顔をしている。

「この後、時間大丈夫?」

「うん。大丈夫」

 一樹は頷いた。眞琴は安堵した様子で微笑む。

 おそらく、今すぐにでも胸中に渦巻く思いを吐き出したいのだろう。


 2人は場所を変え、駅へ向かった。

「臼井さん、何飲む?」

 一樹が自販機の前で聞くと、眞琴は微笑し、首を振った。

「ありがとうね。私、これあるから大丈夫」

 眞琴は昼間に和装紳士から貰ったペットボトルを持ち上げて見せた。


 2人は、がらりとした駅の待合室で肩を並べた。

「あの子ね、中学時代に仲良かった子なの。中2中3の時に同じクラスになって、ずっと一緒に行動してた」

 眞琴はその日々を懐古するように目を細めた。

「あの子、小さくて可愛らしい雰囲気でしょ?対比して私は背が高くて、まぁボーイッシュで…なんか周りから見て、そのコンビが凄い萌えたらしいの」

 あまり良い気はしなかったのだろう。眞琴は眉を下げ、言葉を詰まらせながら言った。

「あの子、結構、腕組んできたり、ハグしてくることが多かったんだけど、女子の間でよくあるスキンシップかなって思ってたんだ」

 一樹は頷く。それがコミュニケーションの一つであると理解していた。

「色んな子から2人は付き合ってるの?とか聞かれて、もちろん私は恋愛感情ないから否定してたんだけど…」

 途端に眞琴の顔が悲しげに歪んだ。

「ある日ね、あの子の家にお邪魔したの。そしたらあの子、制服を…まぁ…脱ぎ始めて…」



 ***



「結愛待って。服、着て」

 眞琴はワイシャツのボタンを外していく結愛の手を止めた。あまりにも突然の事に眞琴の頭は理解が追いつかなかった。

「なんで?」

 眞琴の事など他所に結愛はなんて事ない顔で首を傾げる。

「そういうの違うから」

「結愛は良いよ」

「は」

「眞琴、触って良いよ」

 結愛は眞琴の手を握った。そして、自身の胸に押しつける。その瞬間

「やめろっ!」眞琴は反射的に腕を引いた。

 (私は一度だって結愛の事をそんな目で見たことない!)

「なんでこんなこと…」

 訴えかける様な眞琴の眼差しに結愛は明るげな声で言った。

「だって、眞琴は男の子なんでしょ?」


 ――ふざけんなよ。


「私は、あんたの体に興味なんてない!」

 眞琴は拳を鏡に打ちつけた。鏡は割れる事なく、ただ、拳がヒリヒリと赤らんだだけだった。

 気づいた時には自宅に帰っていた。手に残る柔らかな感触。それを流す為、シャワーを浴びた。

 鏡に写る情けない顔に問いかける。

 ――もし、男だったら割れていた?

 ――もし、男だったら結愛を抱きしめていた?

「違う…私は…」

 眞琴は鏡に映る体を見た。僅かに膨らみを持った胸。それは自分の性を知らせてくれるシンボルだ。

 しかし、眞琴はそれを眼にすると嫌悪感を抱く。

 ――なくなれ!なくなれ!

 ひたすら胸を押し殴った。

 ――なくれば、男になる?けど、それは望んでない。

「だから、勘違いさせたんだ…でも…」

 眼から涙が止めどなく流れた。

「私は…何…?」



 ***



「どっちか、分からないんだよね。私は男で生きるべきなのか、女で生きるべきなのか」

 眞琴は口角を上げながら言うものの涙を堪えている様であった。さらに、肩を震わせ、顔を伏せた。

 一樹は堪らなくなり、背中をそっと撫でた。

「なんで佐野が泣いてんの」

 眞琴は一樹の泣き顔を目にするなり、少し笑った。一樹は想像もしなかった眞琴の思いに心が堪らなくなったのだ。

「臼井さんは臼井さんだよ!」

 一樹は精一杯に眞琴へ伝えたかった。

「どちらかで生きる必要なんてないよ!」

 眞琴は一樹の訴えかける眼差しに不思議と心奪われた。

「それが臼井さんっていう素敵な存在なんだからさ!」

「佐野…ありがとう」

 眞琴はようやく、胸のつかえが下りた気がした。



 ***



 眞琴は初めて胸中を打ち明けた。なぜ、一樹には伝える事が出来たのか。それはやはり、何となしに感じていた事だが、佐野一樹もまた何か似たような秘密を抱えてる気がしたのだ。


 一樹はようやく涙を拭い終えると

「よしっ!」と声を上げた。

「俺も思い切ってカミングアウトするね」

 一樹は思う。眞琴が打ち明けてくれた事はそう簡単に誰にでも口にできる事ではない。自分に話してくれたという事は信頼の証だと。

 すでに一樹の頬は赤く染まっていた。

「俺、今凄く好きな人がいるの。小さい時からお世話になってる40代のおじさんなんだけど…俺の初恋」

 眞琴は衝撃のあまり言葉が出なかった。一樹は引かれたと思い、慌てて弁解しようとする。

「40代って聞くとかなりオジサンを想像するかもしれないけど!俺のおじさんは顔が綺麗で渋くて!でも不器用で心配性で可愛いし本当にかっこいいの!」

 一樹の気迫に眞琴は圧倒された。しかし、眞琴は柔らかに笑った。

「佐野はその人のこと本当に好きなんだね」

 眞琴は一樹の幸せを噛み締めるように想い人の話をする姿に感化された。

 (誰かを好きになるってこんなに幸せな事なんだ)

「うん!これからもずっと一緒にいたい」

 一樹の何とも幸福感に満ちた綻びに自然と真琴も綻んだ。

 眞琴はそっと胸に手を当てた。日中、駅で助けてくれた和装紳士を思うとこの心臓の鼓動が速まる気がした。彼に抱いた初めての想いを大切にしよう。

「そろそろ帰ろっか」

 一樹の声に眞琴は頷いた。

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