友を想う

「とりあえず、佐野は読んだことあるらしいから井口、2日で読んできて」

 有紗の傲慢な口ぶりに悠真は苦笑しながらも、はい、と返事した。実行委員よりもやる気に満ち溢れ、劇の総監督を務めることになった彼女は、かなりスパルタな様だ。

 悠真は手渡された本をぱらりと捲りながら、

「父ちゃんから晶さんが小説家だって聞いてたけど、まさかこっち系だと思わなかった」

 あまり小説に手をつけない悠真には、てんで想像もつかなかった。

「一樹、知ってたの?」

「…うん」

 一樹はだらりと机に寝転んだまま、上目遣いに悠真を見る。

「おじさん、俺が何も知らないって12年間思い続けてたらしいけど…」

 ゆっくりと瞬きをしながら一樹は言った。あまりにも眠たげな顔に、

「…お前、最近眠れてる?」

 正直なところ悠真には本の事よりも一樹の方が気になった。

「うーん、まぁまぁ…」

 長いまつ毛が下を向いた。悠真はそれをじっと見つめる。

「今日、バイトは?」

「…うん…ある〜」綿菓子を噛んでる様なふわりとした言い方だ。

「臼井さん、いるだろ?」

「あっ、臼井さん。何で臼井さん」

 一樹は目を瞑ったまま問う。すると悠真は凛々しい眉を不安定に歪めながら、

「夏休みに駅で会ってさ!れから仲良くしてるんだけど…」

 辿々しく口にした。

「…ん」

「…凄く良い子だよね」

 悠真は同意を求める様に泳がせていた目を一樹へ向ける。

「なんだ、寝てるのか」

 一瞬にして昂っていた気持ちがストンと落ち着いた。

 一樹は瞳を閉ざし、微かな寝息を立てている。勉強の疲れが溜まっているのだろう。悠真は共にこの静寂に身を置こうか、と大人しく本を開いた。


 しかし、一つ密かに伝えたい事があった。悠真は今一度、一樹を見つめる。

「俺、やっと吹っ切れたんだぞ」

 素直な喜びとも表しにくい複雑な感情を混じえた微笑に一樹は気づかない。

 遠くの方で聞こえる管楽器の音。隣室で盛り上がる女子の話し声。悠真が口にした言葉はどの音よりも切なかった。



 ***



「嬉しいわ。帰国して早々、珠子に会いにきてくれるなんて」

 いつも以上に甲高い珠子の声を聞く限り、彼女がどれほど白秀との再会を喜んでいるのか、よくわかる。

「珠ちゃんは外せないよ」

 気立ての良い白秀の言葉に珠子は、まぁ、と口元に指先を当てた。人工的に揃えられた爪先でパールが煌めいている。

「それにしても、また随分と色気が増したんじゃない?」

 珠子が艶かしく目を細めると白秀は、ふふ、と笑みを溢しながら、

「珠ちゃんも一層と綺麗になった」

「嬉しいこと言っちゃって」

 私の事口説いてる?と彼女独特のえんやな雰囲気を漂わせる。すると、白秀も惚れ惚れする甘いマスクで、

「珠ちゃんの様に美しい人を放っておく人なんていないだろうね」

「あら。ですって」

 珠子の視線が、晶に向けられる。その眼差しには長年の執念が感じられた。

 晶は気まずそうに酒を煽った。そこで助け舟を出すのが白秀である。

「彼の才能さ。人を魅了するフェロモンを内から無意識に漂わせるのさ」

 珠子は納得する様に頷く。ふと、白秀は閃いた様に言った。

「君、ひょっとして前世はヴェネツィアの高級娼婦だったんじゃないか?」

 突拍子もない発言に晶はグラスを傾けたまま咳き込んだ。ぽたぽたと液体が服に滴る。

「拭くもの持ってくるわね」と珠子はその場を離れた。

「渚くん、動揺しすぎだよ」

 白秀は苦笑しながら、自身のハンカチで液が垂れた部分を拭っていく。間接的ではあるものの白秀の手が己の体に触れることに多少の抵抗があった。

「すまない。自分で拭くよ」

 そう言って、身体を引いても、白秀は止めようとしない。

「Iシリーズは未完成のままだ」

 唐突に呟いた。晶は左胸に触れる白秀の手に心臓の音の急な跳ね上がりが聞こえたのではないかと顔を伏せる。

「君のここをまだ作れていない」

 ――僕はこの手で触れて感じてからようやく形作る事が出来るんだ。

 Iシリーズは正に彼の真髄だ。

 手、腕、脚、身体の一部をモチーフとした作品は確かに人の身体の一部だと認識できるものの、解剖学的概念を逸脱した、うねりも加わり、抽象的だと捉えられる。その作品から受ける印象は心地良いとも心苦しいとも観るものによってカタチを変える。

 胴体部分、特に彼がこだわりたい箇所である、胸部は未だ手掛けられず、10年以上が過ぎた。

「いつ、くれるんだい」

 切なく揺れるヘーゼルの瞳に同情してしまいそうになる。硬直する晶に白秀は顔を近づけた。唇が触れるか触れまいか、その時だった。

 トンッとグラスの音が二人の視線を引いた。

「ダメよ、この人。今、いい人がいるんだから」

 珠子の口元のほくろが愉しそうに緩んでいる。徐々に白秀も破顔した。

「うん、そんな気がしたよ。どんな子と聞いても答えてくれないんだ」

「私にも会わせてくれないのよ。まるで私たちがその子にとって悪影響みたいじゃない?」

 ねぇ、と珠子は首を傾げた。

「あっくんの色々なコト、教えてあげたいんだけど…」

「そうなんだよ。僕も、彼の弱いとことか…あれこれ教えてあげたいね」

(だから、嫌なんだよ…!)

 晶は言葉に出そうとしたが、二人の気に流されない様、口を固く結んだ。


「珠ちゃん、僕の作品、大切にしてくれているみたいだね」

 嬉しいよ、と白秀はライトに照らされた彫刻を子を愛でる様に眺めた。

「ええ。ただ、世界を股にかけるヒトの作品だから近頃は頑丈なケースに入れなくちゃとも思うわ」

「うん、デビュー前の僕の原点だからね。それなりの価値はあるよ。僕の作品を独り占めしたいと願うコレクターに売れば、どんなに高値でも買ってくれるさ」

 ただ僕はね、と白秀の輝きを持った眼差しが珠子の瞳を射抜いた。

「コレクターの手に渡るよりもこうして俗世の空気に溶け込む場にあるほうがいいと思うんだ」

「あら、先生。そのわけを聞いても?」

 珠子は興味津々といった調子でまつ毛をはためかせる。

 白秀は、うん、と嬉しそうに微笑んだ。

「己の感性を作品に込める職業柄ね、特別である事に自負しているよ。けれどね、普通である事に焦がれるんだ。大衆に認められたいとも思うんだ」

 傍で目を瞑りながら話を聞いていた晶は、自分自身と白秀の言葉を重ねた。

 新人賞を受賞したのち、世間は若き文豪を煽てた。しかし、次第にその関心は薄れるもので、どうにか世間に認められようと流行り物を無理くりに取り入れても上手くいかない。

「ただ、そう願いながら作品を手掛けるとどうも胡散臭くなる。分かる人には分かるのさ。僕はそうした人たちに勘付かれるのが凄く恥ずかしい」

(ああ、こいつも同じ事を…)

 晶は白秀の惜しげな横顔に目配せる。

 おっと話が逸れたね、と白秀は眉尻を下げた。

「共鳴はね、僕の純情のみを含んだ作品だよ。青春期の自分自身、世間に対する思いだ」

「貴重なご講話、ありがとうございます」

 珠子は襟合わせにそっと手を揃え、ゆるりと会釈する。白秀も同じく会釈した。

「渚くんも同じ経験があるだろう?」

 唐突に話を振られた晶は心を見透かされた様で顔を逸らす。

「君の作品は如実だよ」

 ねぇ渚くん、と白秀は晶の気を引こうとする。

「僕の助言通りのカタチにしたんだよね」



 ***



 揺蕩うタバコの煙が天井に上りゆくのを見つめているといつの間にか一日が終わっている。

 そしてまた、翌日も同じ様に一日が過ぎるのだ。

(頭が空っぽだ。怠惰な生活に脳が溶ける様だ)

 晶は目にかかる前髪をかき上げた。

「君、その原稿用紙、いつまで経っても白紙だね」

「お前が俺の利き腕を離さないからだ」

「ああ、そうか。僕の制作に協力してくれているのか」

 白秀は束ねたブロンドの髪を揺らしながらカラカラと笑う。

「君、この前の原稿なんだったけ…歴史好きのアイドルが…」

 と白秀は目を細めた。晶は、これ以上何も言うな、と眉根を寄せた。

「ははっ傑作だね」

「駄作だ」

「…気を遣ってやったのになぁ」

 晶は壁にタバコを押し付ける。コンクリートの一部が黒く霞んだ。今日で何本、何日目だろうか?

 まだ何の形も成してない石膏や粘土、形作る為の道具、マットレスだけのアトリエに篭りっぱなしであった。

 ――良いバイトあるけど、どう?

 明日生きる金も危うい晶には断る理由がなかった。

「わざわざ作風を現代に変えるワケは」

 だらりとした晶の腕に触れながら白秀は問う。晶は口籠った。

 以前、編集者に言われた言葉が頭を過った。

 ――若手時代小説家としての売りが効かなくなってね。何か話題性が欲しいよ。

 ぎゅっと噛み締めた唇に血が滲む。

「君、アイドルに関心あった?」

 白秀は晶の唇を撫でた。

「…ねぇよ」

「だったら簡単に手を出すものじゃないよ。好む人に無礼だ」

 叱られた子供の様にムッとする晶に白秀は微笑する。

「一つ、良い事を教えてあげようか」

 晶は素直に頷く事が出来なかった。ただ、ヘーゼルの瞳を見つめた。すると白秀は晶の耳元に唇を寄せる。微かな吐息が耳を撫で、晶の身体は強張った。

「内に秘めたものを表現した方が魅力的だよ」

 武家社会の男色は興味深いね、と白秀は片目を瞑る。

 途端に晶は立ち上がった。

「どこへ行くの」

「…コンビニ。飯」

「君、ストールでも巻いて行きな」

 白秀は晶の丸まった背中に声を上げた。晶は、なぜ、と問う様に一瞥いちべつする。

「首元の真っ赤な跡が目立つからね」

 その瞬間、晶は顔を真っ赤にし、

「お前が…!」と言いかけたところで口を閉ざし、アトリエを出た。

 白秀はクスクスと密やかに笑った。




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