Autumn

芸術の秋

 店内にふわりと香った桃とも金木犀とも言い表せる甘い匂い。秋の妖精でも舞い降りたか、とロマンチストでない者でもそう感じざる終えなかった。

 その香りを漂わせる人物を目にした途端、心臓の音は跳ね上がる。


 ――ヨーロッパのモデルさんだろうか?


 9頭身はあるだろう、すらりとした立ち姿と歩くたびに揺れる肩にかかったサラリとしたブロンドの髪。サングラスをかけている為、秘めた眼差しは確認出来ない。しかし、見てしまえば、正気でいられない気がする。

 バラ、ユリがドローイングされた柄物のシャツにスラックスを合わせた、洗礼された雰囲気。

 その場にいた者全てが息を飲むほどに心を奪われた。


「16個入り2つと…あと8個入り1つ下さい」

 流暢な日本語でソプラノ音のなだらかな声に思わず耳を澄ませてしまう。注文を受けた店員も一拍遅れで、はい、と声を上げた。

 すると男は店内を見回し、ある物が目に留まると、

「あれも頂きたいな」

 と一言洩らした。

 それはこの店のマスコットキャラクターがプリントされたエコバッグだった。

 途端に店内の空気が僅かに変わった。皆が心の中でほぼ同時に、

 意外!可愛い…!

 と声を揃えたのであった。


 男は店員から紙袋を受け取ると、

「メルシー、マドモアゼル」

 サングラスからヘーゼルの瞳を覗かせ、微笑んだ。意識が飛びそうなほどに麗しい、その顔に店員は、

「ありがとうございました!」

 過剰なほどに声を張り上げた。



 ***



 夏休みがあっという間に過ぎ、二学期が始まると、いよいよ3年生は進路の事で頭が一杯になる。

 筆記試験のある者は常に参考書と睨めっこし、推薦を得た者も授業態度や生活態度の監視が一層と厳しくなり、油断ならない。

 そんな中、最後の文化祭が迫り、それに熱を注ぐ者もなくはない。

「出し物ー!案ある人ー!」

 新学期早々、ホームルームで上がる議題はこんなものだ。しかし、誰も意欲的姿勢は見せない。

 教室の後ろで行く末を見守る美嘉も思わずため息が溢れる。このクラスは他のクラスに比べて最後の文化祭に対する熱量が低かった。


「劇、やりたーい」

 そう声を上げたのは、クラスの女子をまとめ上げるリーダー格の三上有紗みかみありさであった。有紗の意見に抗える者はいない、と言っても過言ではない。

「別の意見なければこれで決定ね〜」

 有紗一派の文化祭実行委員もほぼ独断と言った形で決定付けようとする。

「はーい。じゃぁ決定という事で題材何にする?」

「はい!もちろん、これ!」

 そう言って、有紗は壇上へと上がる。そして皆に文芸本を見せた。意外にも読書家である彼女に皆が興味深そうに目配せる。

「あれ、おじさんが書いたやつだ…」

 一樹は誰にも聞こえない小さな声で呟いた。

「なに?和風ロミジュリ?」

 帯びに記された売り文句に実行委員は首をかしげる。

「そう!」

 有紗は嬉しそうに語った。

「舞台は戦国時代!政略結婚でとある姫様が敵国に嫁ぐんだけど、実はその姫君、男っていうね。いわゆる、替え玉で。そんな可哀想な姫君に情けをかけるの、若将軍は。これがまぁ切なくも心打たれる物語なわけ」

「て、ことは配役、男子?」

 うん、と有紗は頷く。すると一人、真っ直ぐと挙手する者があった。

「山川さん、どうぞ」

 有紗とはまた異なったグループのリーダー格、山川詩音やまかわしおんであった。

「接吻すると思うんですけど、そこどうするんですか」

「それはシルエットでやれば良いじゃん?え、てか山川さん読んだことあるの!?」

 嬉しい、と有紗は詩音に迫る。意外なところで女子が団結力を見せた。男子たちの額に冷や汗が浮かぶ。


 とんとん拍子に話が進んでいく中、いよいよ配役を決める段階までやってきた。まさに生け贄を選定される様な気持ちで男子諸君は固唾を飲む。

「配役は佐野くんと井口くんが良いと思います」

「それ!絶対、一樹と悠真でやって」

 詩音と有紗は口を揃えていった。途端に教室内に安堵の息と、

「え!俺ら!?」と驚愕の声が重なり合う。

 有紗は当たり前でしょ、という様に頷いた。

「おいおい…俺ら演技なんて…」

 悠真も実直に役を買う姿勢ではなかった。

「なぁ?一樹」と同意を求める様に一樹に目配せる。すると、一樹は勢いよく席を立ち上がった。

 一言物申すか、と皆が目を見張る中、一樹は言った。

「どっちが姫やるの!」

 その瞬間、皆ががっくしと肩を落とした。

「いや、そこじゃないだろ…!」

 悠真は呆れ顔で言う。

「もちろん、一樹」

 有紗は、にっこりと笑いながら言った。

「二人の身長差ちょうど良いし」

 うんうん、と詩音は深く同意を示す様に頷いた。


 こうして結果的に一樹と悠真は役を引き受ける事となった。

「お前、勉強とか大丈夫か?」

 悠真は自分の事よりも一樹の事を憂いていた。授業、生活態度がどうのこう言う推薦ではあるが、ほぼ進学確定と言っても良い。

 しかし、一般で入試を受ける一樹は、なるべく多くの時間を勉強に注がなければならないだろう。

 一樹の事だから上手く両立できるだろうと思いつつ、内心不安なのだ。


 すると、一樹はあっけらかんした顔で、

「大丈夫、俺、頭良いから」

「ちょっと今はそのセリフ鼻につくわ」

 心配ご無用、といった調子の一樹に悠真は冗談混じりに呟いた。すると、一樹は眉尻を下げ、

「なんでよ〜」と悠真に縋る。

「冗談だよ」

 悠真は笑いながら言った。

 そのやりとりを眺めていた有紗は詩音と互いに目配せ合い、グッドと親指を立てた。



 ***



「お、虹だ」

 庭で水撒きをする晶は、ホースから出る水に虹がかかっているのを認めると感激の声を上げた。

 (四十にもなって、ひとり声を上げてしまった)

 晶は恥じる様に口を固く結んだ。


 9月初旬とはいえ、庭の植物を見る限り、まだ夏の色味が残っている。

 額を伝う汗も、まだ夏の終わりを感じさせない。

 しかし、不思議と香りだけは秋を彷彿とさせる。

 くんくん、と鼻をひくつかせると、さらにその匂いは強くなる。


 やがてその匂いは晶の胸をぎゅっと鷲掴む、記憶にあるものだと気づいた。

 ほぼ、それと同時に、

「やぁ、渚くん」

 ソプラノ音の声が耳を撫でた。脳裏に焼き付くその声にドクっと心臓が跳ね上がる。

白秀はくしゅう…」

 晶は唖然とした。すると、白秀はサングラスを外し、微笑する。ヘーゼルの瞳は太陽の下、きらきらと水面の様に輝いていた。


「お前、いつ帰国したんだ」

「今朝だよ」

 数年ぶりに目にした友の姿が何一つ変わりない事に晶は驚いた。

 (むしろ、若返ったか…?)

 フランスで心揺さぶる恋でもしているのだろうと想像する。

「君は相変わらずだね」

 白秀も同じく、晶の変わりない姿に感嘆とした。

「ああ〜、やっぱりこの家は落ち着くなぁ」

 ふと、畳に寝転び、陽気なことを言う。

 人当たりよく、物腰も柔らかな白秀ではあるが常に人とは一定の距離を取りたがる。こうも心を許す姿を見せるのは晶ぐらいしかいない。

「また、フランスに戻るのか」

「そうだね」

 白秀は天井を仰ぎながら言った。

「実はあっちでアトリエ兼自宅を借りたんだ」

「そうか」

「パリ18区、モンマルトルだよ。街は芸術で溢れている。まるで夢の中だ」

 白秀は心地良さそうに頬を緩めた。

「君も良かったら遊びにおいで」

 白秀の甘やかな誘いに晶は、

「遠慮する」と苦笑した。

 すると白秀も笑った。

「あははっそうだ。君、飛行機苦手だったね」

 晶は苦虫を噛み潰した様な顔をした。

「懐かしいなぁ…昔、一緒にドイツへ行った時、君。飛行機でずっと僕の腕を命綱の様に掴んでいただろう」

「やめてくれ。今も思い出すだけでゾッとするんだ」

 そういって晶は袖に腕を忍ばせた。

「ところで、何で僕が帰ってきたか、わかる?」

「…展覧会が終わったからじゃないのか」

「それもだけど…」

 白秀は上体を起こし、髪をかき上げる。

「一つの区切りがついたからかな」

「つまり…?」

「Iシリーズを復活させようと思って」

 晶は目を見開いた。

「また、君に触れて、君を作りたい」

 途端に脳裏に様々な記憶が蘇る。それらの記憶は次第に身体を熱くし、動悸さえ起こしてしまいそうになった。

 目の前に白秀の澄んだヘーゼルの瞳がある。頬に添えられた手は酷く冷たい。昔からその手は冷たかった。生まれた時からこの男は彫刻と一体しているのだ。

 途端に、一樹の温かな手が脳裏を掠めた。

「…断る」

 晶は白秀の白い手を掴み取り、払い除けた。白秀は度肝を抜かれた様に唖然とする。しかし、すぐに、

「君。僕の作品がどう生まれるか知っているだろう?」と眉を下げる。

「僕はこの手で触れて感じてからようやく形作る事が出来るんだ」

 白秀の白く細長い手先が滑らかに形を変える。

「給料弾ませるよ?」片方の口端を上げながら言った。

「昔とは違う」晶はふいっと顔を晒す。

 (あの時は明日生きる金もなかった。だから引き受けたのだ)

「自暴的な君も良かったんだけどなぁ」

 白秀は意地の悪い笑みを浮かべた。晶は赤面し、唇を噛み締める。

 (二十代の自分を顧みた際に恥じない奴がいるだろうか?)

「まぁ、そんな君の牙を抜いてあげたのが僕なんだけどね」

 白秀は隙ありと晶の頬を摘んだ。無駄な肉がない頬はハリがあり、しっとりと伸びる。

「痛い」晶は舌足らずに言った。

「しばらくは日本にいるつもりだから。気が向いたら連絡してよ」

 そう言って白秀は持参した菓子折りを開け始める。

「久々に珠ちゃんのお店行きたいなぁ」

 同時に二人の脳裏に幾重のまつ毛を垂れ下げた珠子の柔和な笑みが浮かぶ。

「ああ。あいつもお前に会いたがってた」

「今夜、行こうか」

 久しく帰国した友人の誘いに付き合う他ないと晶は頷いた。


「お前、本当にそれ好きだな」

 机の上に散乱する菓子の包みを目にすると晶は呆れ笑いを溢した。

「最後の晩餐に、と言っても過言ではない程に好きなんだ」

 バター生地に甘やかなキャラメルと自然な味わいをもたらす胡桃をサンドしたその菓子にうっとりと目を細めた。

「僕がイエスだったら一つずつみんなにこれを配るよ」

 晶は、あの食卓で白秀が皆にこの菓子を手渡す姿を想像し、密かに笑った。

「もちろん、君にもだよ、ユダ」

 そう言って、白秀は晶の手に菓子を乗せる。

「俺がいつお前を裏切ったか」

「ついさっき失望させられた」

 少し不貞腐れながら言う白秀に晶は呆れ笑いする。

 ふと、白秀は晶と再会してから暫くして気になった、ある事について問いただした。

「そういえば渚くん。近頃、恋してる?」

「な、なぜ」

 動揺する晶に白秀は、

「表情が柔らかだ」と頬の緩みを指摘した。

 途端に晶は口元を隠した。あからさま反応に白秀はくすりと笑う。

「一体、どんな子なんだろうね。僕、気になっちゃうなぁ」

「…お前には会わせん」

「なぜ?」

 首を傾げる白秀に晶は眉を寄せ、口をつぐむ。

 (なんとなく、白秀に一樹を会わせたくない。)

「渚くん、見てこれ。エコバッグ」

 これ以上追及の仕様がないと感じた白秀は別の話題を放り込んだ。

 晶は目の前でエコバッグを広げる白秀を無邪気な子供の様だと感じた。

 不意に見せる愛らしい姿に、固く結んでいた口もほろりとろける。



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