初めての人

「いやぁ、よく飲んだ」

 酒気の漂う甘やかな声色が晶もほろ酔い気分の為か、心地良く耳に響く。

「少し冷えるね」と白秀は晶の腕に身を寄せた。

 晶は羽織りに腕を忍ばせたまま、素直に応じた。

「家に泊まるのか」

「うーん、渚くんが野宿する僕を憂いてくれるなら」

「…仕方がない」

 一瞬、晶の脳裏に一樹が過った。きっと一樹は快く思わないだろう。しかし、友人を肌寒い夜に野宿させるわけにはいかない。もし、一樹が家を訪ねた際にはワケを説明しよう、そうすれば一樹も納得するだろう。

 そう思って、晶は白秀と肩を並べ、帰路に着いた。


 家へ着くと既に風呂は沸いていた。家を出る前にタイマーをセットし、帰宅時間に合わせて沸かす様にしていたのだ。

 晶は白秀に「先、風呂に入るか」と問う。

 白秀は畳に寝転び、眠気を帯びた瞳を晶に向ける。

「後で良いよ、お先にどうぞ」

「そうか…一応、客人だしな…」と晶は頭をかいた。心ばかりのもてなしを、と思ったのだ。

 すると、白秀は朗らかな顔で言った。

「一緒に入る?」

「…それは断る」

 即答であった。晶はそそくさと浴室へ向かった。

「厳しいなぁ」

 居間に独り残された白秀は静かに笑った。


 (どうも、調子狂うな…)

 晶は湯に浸かり、顔を手で覆った。畳に寝転ぶ白秀は、まるで野原に寝転ぶ妖精の様であった。秋色に染まる木葉の絨毯で己から漂う甘やかな香りにうっとりと瞼を落としている。偶然、鉢合わせた人を魅了し、心を掻き乱すのだ。

 はぁ、と一息つくとその声は思った以上に反響した。

 晶は酔い覚ましに、湯船に頭のてっぺんまで浸かった。


 その頃、白秀は静寂のあまり微睡まどろみにいた。

「おじさん、ただいま」

 ふと耳に響く青年の声に瞼を持ち上げる。

「え」

「おや」

 一樹は幻を見た気がした。金髪、ロン毛、華やかなシャツ。全てが晶と対極にあるその姿に酷く混乱した。

 ――ん?夢?

 何度か目を瞬かせて、現実である事を認めると、

「ど、どうも…」と会釈した。

 白秀は直ぐに頭の整理がついた。

「ああ〜、君は」

 喜しげに一樹へ迫る。立ち上がると、一樹を頭のてっぺんから足先までまじまじと見つめる。その眼差しに一樹は背筋がゾワッとした。

「君、とても可愛い顔しているね。何かスポーツやってる?身体も程よい筋肉がついて、美しい」

 一樹は神々しく、直視できないといった調子で、チラリと上目遣いに白秀を見る。白秀は余裕の面持ちでジッと一樹を見つめる。

「僕、彫刻家なんだけど、モデルを探してるんだ。良かったら君、モデルにならない?」

 日給2桁だよ、とにこやかに言った。一樹は戸惑いを露わにしたまま、

「…何なんですか、あなた」

 一訝しげに見つめてくる青年の眼差しに白秀は、何となく大人気ない事をしたくなった。

 ――きっと、渚くん。怒るだろうなぁ。

 そう思いながらも、白秀は白い歯を覗かせた。

「僕は、渚くんの初めての人かな」

「え」

 ブラウンの瞳が揺れた。衝撃のあまり硬直する一樹に、白秀は確信した。

 ――本気なんだね、君の想い。

「渚くん、今、シャワーを浴びているよ」

「…帰ります」

 一樹は俯いたまま、玄関へ向かった。その途中、

「一樹…!」

 丁度、風呂から上がった晶が一樹の前に立ち塞がる。一樹は晶を睨みつけ、傍を通り過ぎようとした。

「離して」

 晶は一樹の腕を掴んだ。誤解を解かねばと、咄嗟の判断であった。

「話を聞いてくれ」

「…おじさんのバカ!」

 一樹の潤んだ目が晶を射抜いた。晶はぎゅっと締め付けられる胸の痛みを堪え、

「一樹!」と叫ぶ。

 晶の手は乱暴に引き離され、一樹は去っていった。


 修羅場を目の前に、白秀はあっけからんとしていた。

 (僕は事実を口にしただけだからなぁ)

「…僕、帰るよ」

「どこへ!野宿なんだろう!?」

 晶の取り乱した心情が声に現れた。白秀は眉尻を下げ、申し訳なさそうに言う。

「実はホテルを取っているんだ」

「お前!嘘ついたな…」

白秀はにっこりと笑う。

「あの子だよね、渚くんとお熱な子って」

 晶は頷いた。悔やむ様に潜めた眉がピクピクとしている。

「初めての人って伝えたんだ」

「お前…」

 晶は白秀に目配せた。眼力の強いその眼差しを白秀は好んでいた。

 まるで、オオカミに襲われるのを覚悟で草を貪る羊の様にのびやかにその時を待っていた。

 すると、晶は大きくため息をつき、額に手を添えた。

「いや、お前は悪くないな…俺が浅はかだった…」

 白秀は大きく目を見開いた。

「渚くん…君…」

 白秀の記憶にある、晶との青春の日々が霞みがかっている。

「またね」白秀は柔らかに微笑した。

「ああ…おやすみ」

 晶は白秀の顔を見る事なく、言葉だけを向けた。


「白秀!」

 玄関を出た時、晶は裸足のまま、白秀に駆け寄った。

「俺は、お前に感謝してる!あの時、俺に声をかけてくれた事、助言してくれた事も…」

 白秀は晶の言葉を背中で聞いた。

「だが、すまない」

 詰まるような声に、首だけを向ける。

「Iシリーズは諦めてくれ」

 こうべを垂らすその姿を白秀はサングラスをかけ、遮断した。

 そして、口元を緩め、一言も発する事なく、軽く手を振り、去っていった。



 ***



 ドタドタと玄関先から聞こえてくる足音に郁子は訝しげに眉を顰めた。

「なんだなんだ、反抗期か」

 片手に握った缶ビールを机に置くと同時に居間の扉が開かれる。

「うう、かぁちゃん」

「えっ!?なに!?」

 泣きべそをかく息子の姿に、ほろ酔い気分も一瞬で覚めた。

 郁子はとりあえず、一樹を落ち着かせる為にソファに座らせる。鼻を啜る、俯いた顔を覗き込み、

「どうしちゃったの…?勉強、つまずいた…?」

 一樹は首を横に振る。郁子の焦りがさらに増した。

 これまで、こんなにも泣き腫らした一樹の顔を見たことがない郁子は、どうにかその思いに寄り添いたいと思考を巡らせた。

 ふと、ピンっとアンテナが立った。

「あっくん…?」

 一樹は曖昧に頷く。

「あっくんに何か言われたの!?まさか、交際同棲破棄!?」

 早とちりする郁子に一樹は首を横に振った。

「おじさんは何も悪くない…」

 けど、と声を詰まらせながら言う。

「俺が勝手に感傷的になって泣いてるだけ…」

 一樹は自分でも驚いていた。確かに、白秀の存在と言葉が痛く胸を突いたのは確かだ。しかし、晶の話を聞けば、多少の嫉妬心は沸くだろうが、すんなりと納得しただろう。

 恐らく、文化祭、受験勉強が重なり、精神的な負荷になってしまったのだろう。

 一樹の胸の内を聴くと郁子は一樹を抱きしめた。

「一樹、頑張ってるんだもんね。ちょっと疲れちゃったんだね」

 一樹は郁子の肩で何度か頷く。

 郁子は一樹を強く抱きしめる。どんなに身も心も大きく、成長しようとも、この腕で抱きしめた時に沸く愛おしい感情は何一つ変わりない。


 ふと、郁子は声を上げた。

「そう!私、夜ご飯作ったのよ!」

「母ちゃんが…?」

 一樹の目が不安げに揺れた。期待していない感情がダダ漏れの眼差しに郁子は苦笑する。

「ほらっ!見て!かぼちゃの煮物と炊き込みご飯!」

「おお!」

 食卓に並べられたそれらを目にすると、一樹は感嘆とした。

「やれば、出来るでしょ!」

 そう言って、胸を張る郁子。一樹は、凄い、と小さく拍手する。しかし、ふと台所に目をやると、口が歪んだ。

 シンクに散乱とした調理道具や飛び散る調味料。

「あっ台所は後で片すから」

 郁子は引き攣った笑みを添えて言った。同時に一樹は破顔した。

「ありがとう、母ちゃん」

 母の温かな気遣いが胸に沁みる。

 一樹は軽くなった胸にそっと手を当てた。

 ――明日、おじさんの話をちゃんと聞こう。

 食卓に香る出汁の匂いに、勢いよく鼻を吸った。



 ***



 家の中をぐるぐると回る癖は何か悩み事がある時に現れる。

 晶は袖に腕を忍ばせ、台所へ5周目に突入した際、声を上げた。

「明日じゃダメだ…!」

 ――誤解を今すぐに解きたい。

 そう思った晶は感情の赴くままに家を出た。


 一樹の何とも悲しげな顔を思い出すと胸が痛む。自分の浅はかな考えで、一樹を傷つけてしまった事に酷く後悔していた。


 晶は一つ息をついて、インターホンを押す。すると、すぐに郁子の驚いた声が返ってきた。勢いよく、ドアが開いた。

「あっくん!」

 息子を悲しませた母の報復を覚悟し、

「すまない」咄嗟に晶は謝罪した。

「いや、違くて」

 郁子はきょとんとした顔で手を振る。

「一樹から話聞いたわよ。親しい友達が来てたんでしょ?」

「ああ…それで、一樹に誤解させてしまった」

 郁子は、はぁ、とため息をこぼす。どこまで伝えるべきなのか、と考えた挙句、直接二人を合わせた方が早いと悟った。

「一樹、部屋にいるから。ちゃんと話してきな」

「ありがとう、郁子」

「ありがとうじゃないわよ、うちの子泣かして…!一樹の事、不安にさせないの」

「…すまない」

「すまないじゃないわよ!」

「いや…すまな…いや、もういい。何も言わん」

 お邪魔する、と晶は郁子の傍を通り過ぎた。

 郁子は晶の背中を見つめながら、

「もう…!なんて焦ったいの…!」胸に留めていた思いを小さく叫んだ。


 晶は一樹の部屋の前にやってくると、2回ノックし、

「一樹…俺だ」

「おじさん!?」

 一樹の声はすぐに返ってきた。

「さっきの事、謝りたくて…」

 と扉越しに言うと、ゆっくりと扉が開いた。

「とりあえず入って」

 一樹は伏し目がちに晶を部屋へ招いた。

 部屋に入ると、一樹はベッドに腰掛け、トントン、と隣に座る様促した。晶は一樹の隣に座ると、体を一樹の方に向けた。

 正々堂々とした姿に一樹は晶の誠実な心を感じた。

「さっきの奴、白秀って言ってな、俺の同期なんだ。同じ年に大きい賞を貰って、それから仲良くしてる」

 一樹は、うん、と頷く。

「彫刻家なんでしょ…?日給2桁だからモデルやらない?って誘われた」

「あいつ…!」と晶は眉尻を吊り上げる。しかし、こほんっと咳き込んで居住まいを正した。

「俺は昔、あいつの制作活動に付き合っていたんだ」

「おじさん、モデルやってたの?」

 ああ、と晶は頷く。

「大賞を受賞してからしばらくして、俺は全く本が売れなくなった。結局は一時的な話題性に過ぎないってな。それに比べて白秀は益々、活動の幅を広げてな」

 晶はその日々を振り返るように眉を顰めた。よほど苦しかったのだろうと一樹も自然と眉が下がる。

「何を書いてもダメだった。日々の暮らしも危うくなって、精神的にも限界で。このまま死ぬかって思った時にあいつは俺をモチーフに作品を手掛けたいと言った」

 それがIシリーズの始まりだった。

「俺は生きる為にあいつの話に乗ったんだ…あいつの制作方法を知らずにな」

 情けない、と苦笑する晶に一樹は首を傾げた。

「白秀さんの制作方法って…?」

 晶は言いづらそうに口を結ぶ。しかし、一樹には全てを打ち明けたいと思った。

「あいつは手で触れて、ようやく形作るんだ」

 一樹の心臓が鼓動を増した。

「つまり、俺は初めてあいつと肌を重ねた」

 一樹はその言葉が出る事を分かっていながらも、心臓がぎゅっと締め付けられた。

「そんなわけであいつは俺の初めての人なんだ」

 晶は一樹を慮ってか、眉を下げながら言った。しかし、すぐに眉がキリッと上向きになる。

「だがな、一樹。それは過去の話だ。今、俺の心は一樹しかいない」

 その瞬間、一樹の手が晶の左胸にそっと触れた。一樹は驚いた様に目を見開く。なぜなら、一樹が自ら添えたのではない。晶が一樹の手を握り、左胸に添えたのだ。

「誤解をさせて、すまなかった」晶は深く頭を下げた。

「俺も身勝手だった」

 顔上げて、と一樹は晶の顔を覗く。

「おじさんに当たっちゃったんだ。最近、受験勉強も不安になってて、それでさ、文化祭で劇やるんだけど、ヒロインっていう大役受けちゃって、爆発しちゃったんだよね」

 一樹は申し訳なさそうに苦笑した。

「おじさんの話、ちゃんと聞けば納得するって分かってたんだけど…感情的になって、ごめんなさい」

 一樹も深く頭を下げた。


 誤解が解け、互いに思う事を言い切ると、二人の間に流れていた空気が和やかになる。すると一樹はいつもの調子で、晶を上目遣いに見つめた。

「おじさん、仲直りのハグしよう」

 一樹は手を広げ、晶を待っている。

 晶は真っ赤な顔を見られる前に、と一樹を抱きしめた。

「おじさんの匂い、好き」

 耳を撫でる一樹の声に晶はギュッと目を瞑った。

「俺、受験勉強も劇も頑張るね」

「ああ…」

 ふと、晶は一樹の言葉を思い返した。

 ――まて。劇?ヒロインと言ったか?

「一樹、お前、ヒロインやるのか?」

 晶の素朴な疑問に、一樹はパッと体を離し、興奮気味な目で

「そうそう!しかも聞いて!劇の題材、おじさんが書いた小説なの!」と早口に言う。

「…相手役は?」

「悠真だよ!」

 晶は胸にざわめく何かを感じた。

「見に来てね!」

 一樹の楽しげな顔を見ると、そっと胸に閉じ込めるのが正解だと判断した。




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