空回りした愛情

 溝口晶の朝は日が昇る少し前に始まる。目覚まし時計なしに毎朝同じ時間に起きてしまうのだ。それを郁子から老化現象だ、と嘲られたのを根に持ちながらも、二度寝が叶わず、布団から起き上がる。

 雨戸を開け、縁側から朝の湿っぽい空気を吸い込んだ。

 いつもならばすぐに執筆に取り掛かるのだが今日はあまり手慣れていないスマホで文字を連ねている。

 このスマホを持ち始めたきっかけは一樹であった。あまり使う事がないからとガラケーを用いていた晶に一樹は半ば無理矢理、携帯ショップへ連行し、買い替えさせたのである。

 一樹の丁寧な指導のおかげで、ある程度はシステムを理解したものの相変わらず、人差し指で文字を打つ晶であった。

『話がある』

 そのメッセージは晶、郁子、一樹、その3人が参加したグループに送られる。

「よし」

 晶は満足げにスマホを懐に収めた。

 ふと、庭に目をやると惜しくも桜は殆ど散っていた。ついこの間まで満開に咲いていたのだが、あまりにも儚い。

 晶は季節の移ろいをしみじみと感じた。


 その頃、佐野家の朝が騒がしく始まった。

 ドタドタと激しい足音が家に響く。

「一樹!見た!?あっくん話あるって!」

 郁子は台所で朝食と弁当の準備をする、エプロン姿の一樹に言った。一樹は「え?」と首を傾げる。どうやらまだメッセージを見ていない様だ。

「わっ本当だ!凄いシンプル!だけど、これ打つのに5分掛かったと思う!」

 珍しくメッセージを送ってきた事の方が一樹の関心をひいた。しかし、すぐに

「交際と同棲考えてくれたのかな!?それとも俺、振られる?どっちだろう!?」

 一樹はバクバクと脈打つ心臓に手を添えた。

 不安げに母に目をやると

「さぁ〜?どっちだろうね」と郁子は苦笑した。

 付き合いの長い郁子でさえ、晶がどの様な選択をしたのか、想像がつかないのである。

「うわぁ俺、怖い…」

 一樹は膝から崩れ落ちそうになった。辛うじて耐え凌ぐものの、その傍で、出来立ての卵焼きを頬張る母がニヤニヤと笑っている事に気づくと

「母ちゃん何で笑うの」

「いやぁ、一樹、本当にあっくんの事好きなんだなって…」

 恋してるんだね、と嬉しそう歯に噛む。

 一樹は自身の両頬に手を添え、

「うん…」と頷く。


 郁子は晶から一樹の告白を聞いたあの日の事を回顧した。

 晶宅で食事を終え、郁子が帰宅すると、一樹は風呂上がりらしく、バスタオルを被ったままリビングのソファでテレビを観ていた。

「一樹、あっくんから聞いた」

 一樹は母の方に振り返った。

「母ちゃんも俺の気持ち勘違いだって決めつける?俺、本気だよ」

 一切顔を緩める事なく、真意だと口にする息子の姿に母は

「ううん」とゆっくりと横に首を振った。

 思いがけない反応に一樹は母に目を見張る。

「息子の初恋、応援するに決まってるじゃん」

 そう言って郁子は一樹の髪をくしゃくしゃとバスタオル越しに撫でた。


「俺、母ちゃんが母ちゃんでよかった」

「なぁに?朝から」

 突然の涙腺に響いてしまうような発言に郁子は少し茶化したように言う。

「俺の恋、応援してくれるじゃん」

「まぁね…ただ私はね、一樹が自分の気持ちに素直な事がとても嬉しいの」

 幼い頃から我慢ばかりさせてきた。その為か、一樹は自分の気持ちを心に留めてしまう癖がある。

 しかし、そんな息子が胸の内を明かしたのだ。それほどに膨れ上がった想いなのであろう。

 こうして一つずつでも良い。一樹が心に閉じ込めている本当の気持ちを快く受け止めたい。叶えてあげたい。

「だから、進路の事も…ね?」

 郁子の言葉に一樹は苦笑するだけだった。

「よーし!今日も仕事頑張るぞー!」

 郁子はめげない。

「目指せ!定時帰宅!」

 今夜が一か八かの勝負だ。たとえ、晶が期待通りの選択をしなかったとしても、これまで通り郁子は母として一樹の敗れた恋を共に悲しもうと思っている。

「じゃぁ、行ってきまーす!」

 玄関先に駆けていく郁子の背に、

「母ちゃん弁当ー!」と一樹はランチバッグを抱え、母の後を追う。

 佐野家の朝は春光みたく、温かである。



 ***



 今日の一樹はどうも心ここに在らず、といった調子である。

「おーい、一樹どうしたんだー?」

 悠真が一樹の顔をぎょっと覗き込むと、ようやく「わっ」と驚いたように瞳を瞬かせた。

「びっくりしたー!」

「なんか今日ずっとボーッとしてね?もう昼だけど」

「ああっ、もうお昼!?」

 一樹はまん丸の目を黒板上の時計に向ける。

「一樹、お前大丈夫かよ」と悠真は凛々しい眉を下げた。

「うん…大丈夫」

 一樹は何とも言えない顔で俯き、弁当を出し始めた。一体何があったのか。悠真は首を傾げながも、いつものように昼食を摂りはじめた。

 しかし、やはり今日の一樹は様子がおかしい。こんなにも弁当をつまらなそうに食べる姿は見た事がない。いつもの一樹ならば、自身が手掛けた弁当のおかずに自画自賛する。事実、美味いのだが。

 昨日は卵焼きの味付けを変えた事で新しい味を見つけた、と喜しげに頬張っていた。

 それが、今は角切りにした人参とグリンピースのサラダをコロコロと悩ましげに転がしている。

 悠真は堪らなくなり、

「なんか、悩みあるなら聞くぞ」とプチトマトを箸で掬いながら何気なしに言った。

 すると一樹は箸を止め、

「あのさ、今日、悠真に秘密にしてる事、決着つきそうなんだ」

「え」

 箸からプチトマトがするりと落っこちた。

「へぇ」と動揺を隠すように悠真はもう一度プチトマトを掴もうとする。しかし、上手くいかず、指で掴み口に放った。

「だから、明日には言えるかも」

「…そうか」

 一樹は悠真が秘密に感づいている事を知らない。そして、悠真の動揺にも気づかない。

「まぁ、満足いかない結果だと俺、泣いてるかも」

 あはは、と無理矢理に笑う一樹。

 それはつまり一樹がフラれるという事だ。自分にとってそれは嬉しい事のはずなのに、とても悲しかった。

 しかし、その際、悠真は親友として精一杯に一樹の心に寄り添おうと思った。

「その時は俺の胸で泣けよ」

 冗談ぽい口ぶりで言うと

「ははっ借りるわ」

 一樹も波長を合わせ、笑った。



 ***



 まるで、地蔵のようだ。縁側で胡座をかき、何をするわけでもなくボーッとして一日が終わっていく。

 カーカー。

 茜色の空にカラスの音が響いた。

「もう、夕暮れか」

 晶はハッと我に返った。いつの間にか眠っていたらしい。時計に目をやると一樹と郁子が帰ってくる頃合いであった。

「未熟な心は柔軟性がある。その形は容易に変化する」

 ぼそりと呟いた。

「きっと一樹も…」

 やはり一樹の想いは一時的な気の迷いであると決めつけたいのだろうか。だが、不思議と晶は心がざわめいていた。ふと首を傾げた。

「待て、俺は何を憂いている」

 一樹が自分を諦めることは良い事ではないか。しかし、そう思おうとすると心のざわめきが一層と煩くなる。

「捨てられた時の事を考えているのか…?」

 随分と先のことを考えてしまった。前向きに一樹との交際を考えているようである。

「いや待て待て。これは一種の策だ。郁子の願いと一樹の将来を思って、俺はあの条件を提示するんだ」

 ――本当にやりたいことを見つけ、進路を明確にすること

「それなのに何だ?俺はすっかり一樹の恋人の様な心を抱こうとしている」

 子の遊戯に付き合う気持ちで、手抜きだと悟られない様に上手く演じれば良いはずなのに、晶の心は真面目に一樹の想いに応えようとしている。

「おこがましいジジィだ。弁えろ」

 晶は己に喝を入れた。その時だった。

「おじさん、何独り言言ってんの」

「一樹…!?」

 いつの間にか、一樹が目の前にいた。呆れた顔で晶を見ている。

「いつからいた!?」

 心で思っていた事は全て言葉にしていたらしい。思い返すに、一樹に聞かれては気まずいものがある。

 一樹は晶の動揺する眼差しに

「おじさんが自分のこと、おこがましいジジィだって卑下してる時から」

「そうか…」

 晶は安堵した。

「母ちゃん、もうすぐ来るって」

 そう言って一樹は玄関口の方へ踵を返した。



 ***



「一樹」

「はい」

「郁子」

「はい!」


 晶はテーブル越しに据える一樹、そして郁子に目配せた。どちらも似たような顔をして、じっとその瞬間を待っている。

「回りくどいことは言わない。単刀直入にだ」

 晶は珍しく背筋をしゃんと伸ばす。一樹はごくりと唾を飲んだ。心臓の音が不安げに脈打っている。

「同棲と交際を聞き受ける」

「え?本当に…?」

「ただし、条件がある」

「え」

「お前が本当にやりたいこと。目指したいこと。進路を明確にし、その道に進め。そしたら来年の春は共にこの家で暮らそう」

 晶は何とも清々しい顔で言った。それと相反して一樹は「はぁー?」と顔を歪める。そして、全てを悟ったかのように

「母ちゃん!おじさんと仕組んでるでしょ!」と郁子に迫った。

 すると郁子は真面目な顔をして、

「一樹。聞いて」と一樹に目配せる。一樹はすんと大人しくなった。

「もう母ちゃんの負担になりたくないとか考えなくていいの」

 一樹はハッと目を見開いた。母の瞳から涙が溢れていたのだ。

「子供に頼りにされないなんて悲しいの」

「母ちゃん…」

 子は母を悲しませない為に負担になることは避けていた。しかし、それが返って悲しませる理由になっていたのだ。

 晶は親子の空回りした愛情をしみじみと感じた。

「もっと甘えて。もっと一樹の本当の思いを教えて」

「母ちゃん…」

 一樹の声が震えている。

「私の生きがいは一樹なんだよ」

 一樹は俯いた。そして、涙を拭うと顔を上げた。

「俺、本当は野球続けたかった…!悠真と一緒に強いチームと沢山、試合したかった」

 郁子は頷きながら、ごめんね、と何度も呟く。それに一樹は首を横に振る。

「でも、仕事からヘトヘトに帰ってきた母ちゃんが俺の作ったご飯食べて笑ってくれるのが凄く嬉しいんだ」

 野球以外で熱中する事ができた料理。そのきっかけも母の喜ぶ声があったからだ。

「俺、母ちゃんの笑ってる顔をずっと見ていたい」

 本当に母が嬉しいと思うことは何か。一樹はこの瞬間、はっきりと理解した。

「俺、自分の本当にやりたいこと見つける」

 一樹の瞳からはもう涙は出ていなかった。

 この場に似つかわしくないと思った晶が立ち去ろうとすると

「おじさん」

 一樹の声が晶を止めた。

「で、絶対におじさんの恋人になるから」

 晶は一樹の真剣な眼差しに吸い込まれそうになった。まるで、狼に食らいつかれた羊の気分であった。

「俺、この1年間で絶対、おじさんに俺のこと惚れさせるから」

 晶は夕暮れに縁側で呟いた言葉には続きがあると悟った。

 未熟な心の柔軟性は何にでもなり得る可能性を秘めた恐ろしいものだと。




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