当事者の私たち
日没後、晶は羽織りに腕を忍ばせ、街灯の明かりを頼りに店へ向かっていた。日中は人で賑わう通りも日が暮れると、地元民か近くの宿に宿泊する観光客のみとなり、途端に侘しくなる。
しかし、晶はこの静けさを好んでいた。
中通りから少し外れた場所にその店はある。扉越しから漏れ聞こえる酔っぱらいの賑わう声に少しの躊躇いが生じるが、思い切って扉を開けた。
「あら〜いらっしゃぁい」
途端に鼓膜を大きく揺さぶる店内の声高に混じって更に甲高い店主の声が晶を迎えた。
「って、あっくんじゃない!おひさぁ」
その店主は翼を引っ掛けた様な
「最近、全然来てくれないんだから。
カウンター越しから、おしぼりを手渡す店主、珠子は大袈裟に顔を歪め、裾口で目尻を拭う仕草をした。
晶は珠子の変わりない
「よく言うよ」
いつもの、とカウンターの方にある幾つもの酒瓶が連なる棚に目を向けた。
「はいはい。そんな素気ない態度とって、珠子の心は
「勝手に彷徨っていてくれ」
珠子は背後にある棚から、多くのボトルのうち一つを取り出した。その首にぶら下がる名札には『あっくん♡』と珠子直筆で書かれている。
ボトルキープするほどに通い詰める様になってしまったのは酒を好むからというよりはこの味のある店主を
「ほんと変わらず冷たい人」
はいどうぞ、と珠子は袖を押さえ、晶の前にグラスを置いた。
珠子は口元のホクロを緩ませ、晶を見つめる。その瞳は艶っぽく、いかにも『貴方に関心があるんです』という様な眼差しをしてる。
もう20年以上か、珠子になる前から珠子の晶を見る瞳は特別に満ちていた。
「ちょっとママ〜勘定〜!」
「はぁい。ちょっと失礼するわね」
珠子は一つ詫びを入れて晶の前から消えた。
晶は少し離れた席から聞こえる、珠子と出来上がった客の会話に耳を澄ませた。
「ママ、愛してるよ」
「あたしもよ」
なんともむず痒いやりとりだ。
しかし、晶はこうしたやりとりを自然だと思うくらいに慣れてしまっていた。その為、彼の頭は珠子に打ち明ける事柄について上手い事まとめていた。
幾度考えても、ため息ばかりが溢れる。
そんな陰気くさい雰囲気を醸し出す晶に珠子は
「もうなぁに?辛気臭い。四十超えた男のため息なんて環境破壊でしかないんだから。SDGs泣かせよ、ほんとに」
と少し毒づいてみせた。晶のため息を打ち消す様に腕をヒラヒラと揺らす珠子に
「相変わらず、毒が強ぇな」
と晶は苦笑する。
「まぁなんて名誉なお言葉」
まるでオードリーヘップバーンの様な小悪魔的表情を浮かべて珠子はいった。
「で、どうしちゃったわけ?」
珠子はまたも50年代の女優がする様な表情で問いかける。
「あなたがうちに来る時は何かしら悩み事を抱えてるんだから、知ってるのよ」
「おまえには敵わん」
「はぁ珠子かわいそう。こういうのを都合のいいオンナっていうのかしら」
「頼りにしてんだよ」
「上手いこと言って」
心地良いテンポのやりとりに二人は笑った。そして晶はこの流れに言葉を委ねた。
「実は——」
話を聞く間、珠子も郁子と同じく表情を豊かに変えた。時に片眉を持ち上げてみたり、グロスの艶めきを確かめる様に指を噛ませた。相槌も上手く、するすると言葉を連ねてしまうのだ。
話し合えると、珠子は一つの映画を鑑賞し終えた様に瞳を瞬かせた。
「あなた一体どうやってその坊やの心を射抜いちゃったの」
晶は渇いた喉に酒を流し込んでから言った。
「冗談ごとじゃないんだ、茶化さないでくれ」
「あっくん、昔からそう」
「どういう事だ」
珠子は晶の空になったグラスを手元に引きながらいう。
「本当に自分の魅力がわかってない人って厄介」
晶は腕を組み、眉に皺を刻んだ。珠子はその姿にチラリと目配せた。はぁ、と湿っぽい吐息をつき、グラスにボトルを傾ける。
「自然と人の心を揺さぶるんだもの」
グラスを晶の手元に戻した。晶は相変わらず、解らないという様な顔をしている。
「まぁその話はもういいわ。今更手遅れだもの」
高校3年間、晶に思いを寄せていた珠子は懲り懲りしている。それでも未だ、あの日の淡い恋心を思い出させてくれる晶を気にかけてしまうのだ。
晶に心を奪われてしまった者の定めなのかもしれない。
珠子は一樹が気の毒だと感じた。それと同時に同じヒトを好きになった一樹の肩を担ぎたい様な気がした。
「それより、坊やの想いを否定するのは間違ってるんだからね」
「ただ俺はあいつの将来を憂いてるんだ」
言い訳めいた言葉に珠子はわざとらしく、吐息をつく。
「珠子的には郁ちゃんが提案する方向で進んでみたらいいんじゃないかしらって思うの」
珠子の言葉に晶は手に持っていたグラスを落としそうになった。
「進学を条件に交際と同棲を認めるのか?」
「ええ。そしたら、あなたや郁ちゃんが坊やに望む願いを叶えられるでしょう?」
「まぁ、そうなんだが」
「どちらもウィンウィンじゃない。何が問題なの」
晶は口籠った。一度、酒を流し込んでみようか。そうしたならば、言葉も滞りなく出るだろう。
晶はグラスを思い切り傾けた。それをみた珠子は晶が未だ誰にも口外していない思いを吐き出すんだわ、と行儀の良い猫の様に口を結んだ。
「も、もしもだ。これで一樹が大学やら専門に進学したとして、俺はあいつの恋人になる。四十二の俺が恋人なんだぞ?側から見たら親子か、あるいはそういう目で見られるだろ」
一口に酒を流し込んだ晶の瞳が潤んでいた。微かな頬の赤みも相まって、色っぽい。
「じゃぁ、あなた、もしその坊やが自分と同じ四十を超えた年だったらどうなの?」
「それだったら、恥じることもないから許せるが…」
そう言葉にした晶に珠子はここぞとばかりに声高に言った。
「あなた、年齢、性別、世間体ばかりを理由にしてるわ」
晶はハッと目を見開いた。確かに今のやりとりを思い返すと外面ばかりを気にしている。しかし晶は首を振った。自分が一樹に抱く思いは親心の愛だ。決して感情に振り回される恋愛ではない。
「もっと内面的に、魂を見なさいよ」
ついに晶は頭を抱えた。
珠子は思う。この人が孤独でなくて良かった。己を含め、郁子や侘助など旧友が側にあるのと春日井渚という作家としての彼がいるから何とかこうして生き永らえているんだわ、と。
「あらあの人懐かしいわ」
ふと珠子は言った。晶は顔を上げ、珠子の視線の先を見る。そこにはテレビがあり、何やら人々が語り合うバラエティ番組が流れていた。
「二丁目時代の悪友なの」
と珠子は悪戯っぽく笑う。
「最近、こうやって表舞台で活躍してるでしょう。私、とても嬉しく思うのよ。一昔前の私たちなんて汚れ役で這いつくばって生きるしかなかったんだから」
珠子は温かな眼差しでテレビを眺めていた。
高校を卒業して以来、おおよそ10年間を新宿二丁目で過ごした珠子はその時代の日々を懐かしんだ。
その時代の半分以上が苦しみでしかなかったものの、数えられるだけの幸せが珠子を救った。そして今、こうして地元に帰り、自分の店を持てることに、あの日々は無駄ではなかったと喜びを感じている。
「今はこんなに表の方から私達を求めてくれている」
テレビで活躍する友人たちの成功が喜ばしいのだ。
「大体ね、当事者である私たちが引け目に感じるなんておかしいのよ。もっと堂々とあるべきなのよ!」
珠子の心の叫びに晶は、ごもっともだ、と頷いた。
「そういえば最近、あの色気ムンムンの彼、連れてこないわね」
珠子は晶に目配せる。晶はすぐにその人物が頭に浮かばず、数秒ほどして、ああ、と生返事した。
「あいつのことか。あいつは今、フランスだ」
「あら、フランス?彼の活動拠点は本場のフランスになってるってわけ?」
「いや、日本だが、今はフランスで個展を開いてるらしい」
「あら、いつの間にそんな舞台を広げたのよ」
感嘆とする珠子に晶は控えめに笑った。
晶と珠子が話題にするその人物は晶と同じ20の時に世間に認められた芸術家であった。同期の活躍は喜ばしい反面、己を顧みた際に惨めさを一層と叩きつけられる。
「まぁ私は彼が脚光を大いに浴びる前から見初めていたけれど」
珠子は自慢げにカウンター内にある一つの彫刻に目をやった。店の照明が上手い具合に当たっており、入店して直ぐに目を惹く様な演出が施されている。
「本当、彼らしいわ。人なのか人ならざるものなのか、男なのか女なのかも分からない。けれど二つが互いを求めて絡み合っているのは確か。抽象的だけれど、心打たれるものがそこにあるわ」
うっとりとその彫刻に見惚れる珠子。
晶はその彫刻を見るたびに胸の底から込み上げてくる得体の知れない何かを感じていた。
「作品名も共鳴よ」
「ああ」
晶は手元のグラスに目を戻す。酔いが回ってきたのか、視界が
***
「ねぇ、渚くん。僕の作品を見て君、どう思う」
ありのまま教えて、とソプラノ音の声がいった。
「どう思うって、抽象的な作品を見て、明確な答えを求めるのか」
自暴的な瞳を持った青年が目元まで伸び切った前髪をかき上げ、口にタバコをあてがいながらいった。すると、澄み切ったヘーゼルの瞳を持つ青年がそのタバコを奪い取り、自身の口に収める。
ふぅ、と煙を吹かせ、笑った。
「君は本当に言葉に対して
からからと笑うたびに肩まで伸びた髪が揺れる。
「でも、だからこそ君の作品は面白い」
そう言ってタバコをもとの口に収めた。
青年は戻ってきたタバコを打ちっぱなしの壁に押しつけた。
「言葉にできねぇんだよ。胸の底から何か込み上げてくるとしか」
「嬉しいなぁ。言葉を武器にするヒトを悩ませることができて」
ヘーゼルの瞳が切長な瞳に目配せる。
「でもね、渚くん。僕は知ってるんだ。君のソコにある何かを」
そう言って金髪の青年は黒髪の青年の露わになった左胸に触れる。
「もう少し手掛けたいところだけれど、少し休憩しよう」
二つの影が重なる。その影は重なったまま、乱雑に敷かれたシーツに倒れ込んだ。
***
「あいつは初めから俺とは違う次元にいたんだろうな」
晶は
すると、珠子は如何にも好かないと言う様に眉を
「陰気くさい」
店じまいよ、と珠子は片し始める。晶は、少しだけ、と詫びて瞳を閉じた。
酔いも覚める肌寒さに晶は肩をすくめた。自宅までの帰路が憂鬱だ、と熱燗を抱いて帰りたいと思った。
「是非、あなたにゾッコンの坊や連れてきてね」
見送りがてら珠子は言った。
「連れてくるか、こんな酒臭い店に」
「ミルクぐらい出すわよ」
「飲むか!」
うふふ、と珠子は晶の鋭いツッコミに笑う。晶はもう珠子に背を向け、歩き出していた。
「まだ春の夜は冷えるんだから気をつけてね」
少し声を張って珠子はいった。晶は片手を揺らす。
「良い知らせ、待ってるわね」
晶にその声が聞こえたのか、珠子には分からない。しかし、いずれにせよ次に顔を出した時には何かしら進展があるに違いない。
珠子はその日を思って楽しそうに笑った。
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