想像もしない胸中
自宅への帰路、晶はもどかしい感情に苛まれていた。偶然、一樹と蕎麦屋で対面したものの互いに意識し過ぎた為か、妙にぎこちなかった。
「この歳でこんなにも感情に振り回されるのか」
晶は独りでに呟いた。
以前のような関係に戻る事は不可能だと言うのか?ならば、どうすれば良い?
「はぁ」と深く息をつく。
晶は自分一人ではどうにも解決策が浮かばないと思った。こういう時、相談相手として晶には二人の人物が浮かぶ。一人は郁子。しかし、頭を悩ます問題に直接関与している郁子は今回頼る事ができない。ならば、もう一人を頼るしかない。
晶は踵を返した。自宅とは逆方向につま先が向く。
しかし、ふと空を仰ぐ。小春日和の暖かな日差しが晶の視界を霞ませた。
「まだ、やってないな」
晶が向かう先、相談役が店主を務める店は日が暮れた頃に営業を始める。晶はもう一度、踵を返した。一度自宅へ戻り、日が暮れた頃に家を出よう、と考えたのである。
***
一方その頃、蕎麦を食べ終えた一樹は、蕎麦屋の奥にある悠真の家で寛いでいた。
「なぁ、一樹」
悠真は僅かに顔を一樹に向けて言った。
「なぁにぃ」
ベッドで仰向けに寝転び、漫画を読む一樹は生返事をする。
果たしてベッドで寝転ぶ一樹とそのベッドの縁を背もたれに床に座る悠真。どちらがこの部屋の主人なのか。悠真は苦笑した。しかし、こうした遠慮ない関係が築かれている事にどこか嬉し気な心持ちである。
「なんだよ」
なかなか応答を示さない悠真に一樹はチラリと目配せる。悠真はハッと瞳を瞬かせる。
「あのさ、俺、お前の…」
『秘密わかったかもしれない』
悠真は喉元に出かけた言葉をそのまま口にする事ができなかった。
先程目にした、晶に対する一樹の挙動。一樹が晶をただのおじさんとしてではなく、胸を締め付ける存在であること、実りの危うい蕾であることを確信していた。
それは、悠真が一樹を想う心情と何一つ変わらない。ならば今、一方的に一樹の秘密を暴くのは間違いであると悠真はぎゅっと口を結んだ。
一樹が自ずから打ち明けた時が己の秘密を打ち明ける時だ。
「やっぱ何もない」
悠真はその一言で締めた。
そんな悠真の声に
「やば!この展開熱いんだけど!」
と一樹の興奮が被さる。
「え?」
「悠真見た!?」
一樹は起き上がり、キラキラとした瞳を悠真に向ける。一樹の手中にある漫画は昨日発売したばかりのもので悠真はまだ1ページも覗いていない。
「俺まだ見てない!」
一樹のあまりの高まりぶりに悠真の心が揺さぶられる。一樹は悠真を煽るように、その見開いたページと悠真を交互に見遣る。
ニヤニヤと怪し気に笑う一樹に、ついに悠真の好奇心が限界を超えた。
「なんだよ見せろよ!」
悠真は急かす様に手を伸ばした。しかし、一樹は渡さんと胸に抱えてそっぽを向く。悠真はベッドに上がり、一樹に覆い被さるかたちで漫画を奪おうとする。
「うわっずりぃ!」
「素直に貸せ!」
それは嫌だ、と口を尖らせる一樹。悠真は、それならばと一樹の脇腹をくすぐった。
「あははっ止めろよ〜!」
「いや貸してくれるまで止めない」
あははは、と一樹は笑いながら瞳を潤ませている。悠真は容赦なしにくすぐった。二人のわちゃわちゃとした戯れはしばらく続く。
「も、もうこうさん」
一樹は、すっかりと笑い疲れてしまい、両手を上げた。悠真は脇腹から手を離し、漫画を受け取る。
途端に静けさが2人の間に流れはじめた。
「そういえば、おまえ進路どうすんの」
その静けさを破る様に声を上げたのは一樹だった。
突然の事に悠真は驚きながらも、その応えは明確な為、すぐに
「俺は調理師の資格取りたいから専門だけど」
という。
悠真は将来的に家業を継ぎたいと考えている。
「そうか…蕎麦屋になるんだもんな」
「まぁ、蕎麦屋の息子なんで」
2人のお決まりとも言える会話のラリー。しかし、すぐに静けさが訪れる。
またもその沈黙を破るのは一樹であり、
「あのさ」と消え入る様な声でいった。悠真は突如、神妙な顔つきを見せた一樹を不思議に思い、首を傾げた。
「嫌な気持ちにさせたらゴメンなんだけど…」
「なんだよ、今さら」
一樹の前置きは悠真を歯痒くさせた。
「もし実家が蕎麦屋じゃなかったら別の選択肢もあっただろうなとか、なんていうか定められた道?以外があったかもしれないって考えたりしないのかなって」
ごめん、上手くまとめられなくて、と一樹は伏し目がちになる。
「いや、わかるよ。一樹の言いたいこと」
悠真は言葉を噛み締める様に何度か頷いた。
「なんで蕎麦屋の息子なんだろうって悔やんだ時期あったよ」
その言葉に一樹は大きく目を見開いた。悠真はこれまでその様な心情を一度も露わにする事がなかったのだ。
「年末とか皮肉だったなぁ。父ちゃんと母さんは店に出て年越し蕎麦を売っててさ、だいたい家族で買いに来るじゃん?それ見るのが嫌でずっと俺、部屋にこもってたもん」
「そうだったのか…」
想像もしなかった悠真の心内に一樹は眉を下げる。
「正直、蕎麦屋を継ぎたいって思ったの高校入ってからなんだよ。バイトで携わる様になってから」
小中と野球に熱中するも高校では帰宅部となり、怠惰な日々を過ごしていた悠真に母が一社員として携わってみないか、と提案したらしい。
「初めはすげぇ怒鳴られたりしたよ?息子だから厳しめなのか知らないけど。俺も言い返したりしてさ」
一樹の脳裏に厨房に立つ侘助と悠真の姿が浮かぶ。二人の喧嘩腰なやりとりがテーブル席の方まで漏れ聞こえるが、不思議と微笑ましく感じるのである。
悠真がほろりと笑った。一樹が見た光景と同じものがまなこに浮かんだのだろう。
「でもさ、父ちゃんの蕎麦に対する思いを間近に感じられたし、うちの蕎麦を食べて日本一だとか市販の食べれなくなったとか色んな人から言われて、凄い嬉しくて俺も父ちゃんみたいになりたいって思ったんだよ」
一樹は悠真の瞳がキラキラと輝いている事に気がついた。その瞳が一樹に向けられる。
「父ちゃんみたいにうちの蕎麦で誰かを幸せにしたいって思った」
そして悠真は歯に噛んだ。心根からの思いなのだと、その意志の強さを感じる。
「で、一樹は?進路どうすんの」
自分話にひと段落着いた悠真は一樹にターンを回した。しかし、一樹ははっきりと応えようとしない。
「俺は…」
「就職にするの?」
「うん、まぁ」
「母さんに言われてんだろ?お金のことは気にせず自分の進路決めろって」
そう言われると一樹は気まずそうに髪を掻いた。
「そうなんだけどさ…なんて言うかさ、悠真とはちょっと違うんだけどちょっと同じって言うか、就職って道が俺に定められた運命なんじゃないかなって思ってて」
歯切れの悪い返事に悠真は眉をひそめる。
「はぁ?お前が勝手に思ってるだけだろ?」
「うん、まぁそうなのかもしれないんだけどさ…今さら自分のやりたいことがわかんねぇんだよ」
そう言って一樹は口を閉ざした。
憂い気な表情を浮かべた友に掛けるべき言葉が見つからない。悠真も同じく、一樹のこれまで明かすことのなかった胸中を初めて知ったのだ。自然と凛々しい眉も侘し気に下がる。
いつの日だったか、同じような場面に遭遇した事があった。確かあれは、小6の時、少年野球チームで練習をする最後の日だった。
「俺、中学入ったら野球辞めんだ」
練習後、集合解散場所である公園で、いつものようにキャッチボールをしていた時、突然に一樹は言った。悠真は衝撃のあまりボールをぎゅっと握りしめた。
「なんでだよ。俺、おまえ以外とバッテリー組むとか考えられない」
中学でも同じクラブチームに所属し、時に弱音を吐きながら共に汗水垂らし、必ずグラウンドに二人で立つ事を想像していた悠真は、一樹が口にしたその一言で、その夢が儚く朽ちていく事にどうしようもない怒りを感じた。
なぜ、今日まで黙っていたのか。中学進学後の野球について語り合ったこれまでの時間は何だったのか。何も知らず脳天気に話していた自分が恥ずかしく、また、夢のまま終わる事を知っていながらも波長を合わせた一樹に対して沸々と怒りが立ち込めた。
しかし、そんな怒りも一樹の顔を見た途端に消失した。
「うち、母ちゃん独りで生活支えてるからさ、負担を減らしたいんだよ」
そういって一樹は笑った。
悠真は泣きそうな顔で無理矢理に笑顔をつくる友に何も言葉をかける事ができなかった。
当時はあまりにも無知であった。なぜ、母の負担を減らすために野球を辞めなければならないのか意味がわからなかった。
しかし、今は容易に想像できる。クラブチームに入ることでどれほどの出費と家族への負担があるか身を持って知った。だからこそ、3年間は全力を尽くし、野球に励んだ。一樹が立つ事の叶わなかった舞台に一樹の思いを背負って。
その結果、良い成績を築き上げ、多くの強豪校から推薦を受けた。しかし、悠真はそれを全て断り、一樹と同じ、地元の高校に進んだ。
グラウンドに立ち、グローブを構えた時、一樹の投げたボールがこの手におさまらない3年間は悠真にとって悔しくて堪らなかったのだ。
「まぁ確かにそうだよな…俺も蕎麦屋の息子じゃなかったら、おまえと同じように悩んでたかもしれない」
悠真なりの精一杯の言葉だった。すると、一樹は笑う。
「重い話は止めようぜ」
からりとした声色が、その場の空気を一転させようとする。
悠真は一樹の計らいに同調するように
「そうだな!ゲームしようぜ」
と凛々しい眉を持ち上げた。
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