キャッチボール
桜散る、大樹の下。一樹は人差し指と中指、親指に支えられた軟式ボールをジッと見つめていた。彼の脳裏に浮かぶのは、ただ一人の男。
「くそじじぃめ!」
一樹の消化不良な感情が込められた球が真っ直ぐ空中を走った。その先でボールを待つ青年は、遊戯にしては速球過ぎる球に腰を据え、グローブを構えた。
「いつきぃ!ガチじゃん!」
どこか喜びの混じった声を上げた。
「ごめん!悠真!怒りこもった!」
「ははっナイスボール!」
久しく受けた一樹の速球に悠真は楽しそうにグローブにボールを打ち付けた。彼の特徴的な凛々しい眉が愉快に持ち上がる。
この青年、
中学時代にはクラブチームに所属し、キャッチャーとして多くの球をその手に受け止めてきた。そのおかげもあってか、腿、腰、肩、どれも劣らず大きく、背丈も185センチとプレイヤーにとって恵まれた体を持っている。
しかし、そんな彼も高校に上がると野球に対する熱も冷め、こうしてコミュニケーションの一環として球を握るようになった。
「何で怒ってんの?」
悠真は軽く球を投げた。
「俺の願いを何でも叶えてくれるって約束したのに破られた」
球が曲線を描いて飛んでいく。
「何それ、すげぇガキくさい理由だな」
吹き出す様に笑う悠真に一樹は顔を赤らめた。
「笑うなし!俺の一世一代の告白だったんだぜ!?」
一樹はハッとした。その動揺は球にも伝わり、情けない送球が悠真の手前に転がり落ちた。
(やばい。口が滑った…)
「ごめん」
一樹の視線が彼方此方に忙しなく向けられる。一樹は自分が晶に思いを寄せている事を親友に打ち明けていなかった。
「動揺しすぎ」
悠真はボールを手に取り、一樹のもとへ駆け寄る。俯いた一樹の目に悠真の大きなスニーカーが映る。
悠真は俯いたまま何も言わない一樹をじっと見つめた。凛々しい眉が哀しげに下がった。
「親友の俺にも言えない事?」
頭上から降ってきた言葉に一樹は顔を上げる。親友の何とも哀しげな顔にギュッと眉を顰めた。
「ごめん」
「なんで謝るんだよ」
「だって、俺らお互いの事何も知らない事ないくらいに親友じゃん」
一樹は口を尖らせながら言う。確かに互いに家庭の事情、これまでの成績、誰と繋がりがあるか、食べ物の好き嫌いも良く知っている。だからこそ、こうして打ち明けられない事に申し訳ない気持ちで一杯なのだ。
しかし、そんな落ち込みを見せる一樹に悠真は吹き出す様に笑った。
「何で笑うんだよ!」
悠真は目尻を拭いながら盛大に笑った。それとは対照的に一樹は顔を赤くして口をキュッと結んでいる。
笑いの最中にいる親友が落ち着くまで一樹は大人しく待った。
しばらくして、ふう、と息をつき、悠真は一樹に目配せた。
「もしかしたら一樹に言ってない俺の秘密あるかもしれないじゃん」
「そうなの!?」
「ほらっ、一樹にも俺にも言えない秘密を持ってるだろ?」
悠真の眉が優しく垂れ下がった。
「何も謝る事ねぇよ」
「…そうだな!」
束の間の険悪なムードが一転し、いつもの陽気なムードに切り替わる。
「けどさ、俺は心の整理がついたら絶対、おまえに一番に言うよ」
そう言って、親友の特権、と歯に噛む一樹。悠真はそんな一樹の笑顔を眩し気に見つめる。すると、一樹の肘が悠真の脇腹を突いた。
「だから、悠真も親友の特権で言えよな?」
上目遣いに向けられた柔らかなブラウンの瞳。悠真は目を逸らした。
「うーん、考えとく」
「泣いたわ」
二人の青年の楽し気な会話に桜の花びらが快晴の空に舞った。
「そういえば最近、悠真んちの蕎麦食べに行ってないなぁ」
下校時、電車の中で一樹は無意識に口にした。最後に食べたのは年末だ。
井口家の蕎麦屋は観光客が賑わう通りの少し外れに位置する。地元の人が言外したくないと口を揃えて言うぐらいにその味は確かだ。
無意識に言葉にしたわけは口恋しくなったのだろう。
「食べに来いよ」
流れていく海の景色を眺めながら悠真は言った。
「これから行ける?」
傍にいる一樹に視線を落とす。一樹は眉を持ち上げ、
「ああ、行こう!」と綻んだ。
***
そこの蕎麦屋は賑わいから少し外れた通りに大人しく佇んでいた。暖簾を潜ると太く凛々しい眉の店主が出迎える。
店内は広過ぎず、狭すぎず。十ほどのカウンター席と三つのテーブル席が収まっており、木目調の明る気な壁からは木の香りが仄かに漂う。
注文は毎度変わらず、飽きも来ず。最後に食したのはいつ頃かと暫し記憶の旅路を辿る。微かに鼻腔をくすぐる懐かしい香り。
漆の盆に乗せられやってきた器には蕎麦と小鉢には心ばかりの薬味が添えられている。
成人男性の手に心地良く収まる器を持ち上げ、一息に吸い上げると、たちまち昆布と鰹の出汁が効いた芳ばしい香りが鼻をつく。
途端に脳裏を駆け巡る時代の数々。時を超え、愛され続けた蕎麦が魅せた束の間の感動に鼻を啜った。
「おい、妄想野郎。早く食え」
真正面から投げかけられた言葉に晶は閉じていた瞼を持ち上げた。
「五月蝿い黙れ、ゲジ眉。俺なりの愉しみ方だ」
互いに悪態をつきながらも、その言葉には微塵も悪意がこもっていない。長年に渡り幾度も交わされた言葉のキャッチボールなのだ。
晶は手を合わせ、いただきます、と口にし、割り箸を割った。
昼食時の少し前。晶は自宅の一室にて執筆をしていた。朝食を摂ることもなく、時間を忘れ、カタカタとキーボードを打っていたものの、突然にあの蕎麦が食べたいと思った次第である。
年末ぶりに嗅いだ芳ばしい出汁の香りに改めてこの蕎麦しかない、と賞賛するのであった。
しかし、ここの店主である
カウンター越しから吹き矢の様に飛ばされる店主の鋭い眼差しももう痛みを感じる事がない。
「いつまで根に持つ気なんだ」
侘助が晶を恨めしく思うわけは郁子の存在であった。高校生時代、校内一の高嶺の花であった郁子を取り巻くファンクラブなるものが存在した。侘助はそのファンクラブのまとめ役の一人であり、アイドルなる郁子の存在を崇めていた。そんなアイドル郁子の恋を応援するのもファンとしての心得。
しかし、長年想いを寄せた幼馴染、晶に告白するも呆気なく振られた郁子は涙にくれる。無論、ファンクラブ会員達は怒りに燃えた。
「おまえは俺たちの青春の女神を泣かした」
ネチネチと悪態をつく侘助。晶は「蕎麦が不味くなる」とさりげなく言った。
「俺に感謝すべきだぞ。俺がこの店のレビューを上げているんだ」
「おまえのレビューが無くとも、うちの店はどうにでもなる。味が確かだからな」
「確かに。味は確かだ」
「おまえのレビューを見て来店する客もいるがな」
ふんっと顔を逸らした。互いに認める所は認めている様だ。
「父ちゃん、ただいま〜」
その声と共に店の引き戸がガラガラと鳴る。
「おお、悠真。おかえり」
「おじさん、こんにちは」
悠真の後に続いて暖簾を潜る一樹。侘助は年末ぶりに顔を合わせた一樹を喜ばし気に迎えた。
「一樹!久しぶりだな!」
「ぶっ」
その名を聞いた途端、晶は口に含んだ蕎麦を戻しかけた。
「い、一樹…!?」
名を聞いただけで、脳裏には昨日の出来事が駆け巡る。
「げっ!おじさん」
一樹もカウンターに座る和装姿の男が晶だと気づくと驚愕した。
そんな二人を井口親子は交互に見遣る。
妙な緊張感が漂うのは、この二人の間に何か揉め事があったからに違いないと井口親子は黙認する様に眼差しを交わし合った。
「一樹、美味いか?」
黙々と蕎麦を啜る一樹に悠真は問いかけた。
「うん、美味い」
顔を上げ、悠真の不安気に揺れる瞳を見ながら言った。
「あれだな、晶も一樹も年末ぶりで、同じタイミングでうちの蕎麦が恋しくなったってか!」
わははは、と大笑いし、侘助も場の空気を変えようと試みるが、晶は店主を一瞥し、一樹は「ああ、そういえばおじさんもいましたね」と素気ない返しであった。一層と空気が重苦しくなる。
「勘定」
「あ、おう」
晶は懐から財布を取り出し、お札を2枚卓に置く。店主は幾らか余分である事を伝えようとした。
「一樹の分も」
微かに聞こえた晶の言葉に一樹の手がぴたりと止まった。途端に一樹は晶の方に目配せる。
「そういうのいいんだけど」
晶は振り返る。しかし、特に何を言うわけでも無く、席を立ち上がった。戸口の方へ向かう晶の背中に一樹は声を上げた。
「そうやって優しくするから俺は…」
晶は足を止める。一樹はギュッと唇を噛み締めた。その先の言葉は言えなかった。晶は戸を引き、店を出た。
その一連を目撃してしまった悠真はハッと息を呑む。
「一樹、おまえ…」
俯く一樹の顔は赤らんでいる。
悠真はこの瞬間、確かに一樹の秘密を知った。
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