大人たちの談話

 夕食時、卓を囲む晶と一樹と郁子。食卓には春野菜を用いた料理が彩りを成している。しかし、郁子以外の2人が放つ不穏な空気が、その場を居心地悪くしていた。

「あはは、このお味噌汁に入ったレタス美味しいね〜」

 場の空気を和ませようと郁子は味噌汁に入った具材に賞賛をおくる。しかし、その言葉に調理した一樹が母を一瞥いちべつした。

「母ちゃん、それキャベツ」

 酷く冷めきった言い方であった。あまり料理が得意でない郁子はキャベツとレタスの違いも分からない。指摘されてもなお、その違いにピンとこなかった。

 晶も郁子と同じく、料理をしない質ではあったが流石にこの違いには気づいている。

 郁子は、あはは、とわざとらしく笑った。

「ねぇ?なんか、雰囲気悪くない?」

 晶と一樹を交互に見やる。2人は何ともない様な素振りで郁子の言葉を聞き流している。返ってそのような態度が郁子の頭を一層と悩ませた。

 普段ならば、食卓の彩りに合わせ、交わす言葉も鮮やかなのに。今夜は不思議と食の旨味が半減するようで、食が進まない。

「一樹、どうしちゃったの」

 堪らなくなった郁子は息子に助け舟を求める。

「知らなーい。おじさんに聞いてみたら?」

 一樹の機嫌の悪さが必要以上の咀嚼そしゃくに現れている。

「ちょっと、あっくんどうしたの」

 郁子は晶に迫った。晶は伏し目がちに言う。

「いや、何でもなくないんだが、何でもないんだ」

「つまり…分からない」

 歯切れの悪い晶の言葉に郁子は眉をひそめた。

「あっ!クラス!クラス替えどうだった!?」

 忙しなく、一樹に迫った。

「まぁ良い感じー」

 変わらず一樹の返事は素気ない。

「そっかぁ、もう高3だもんね〜」

 無理矢理に会話を引き伸ばそうとするも、誰もその流れに乗ろうとしない。

「成長感じるね〜!」

「いてっ」

 郁子は卓の下で晶の足を叩いた。話に乗れ、と言う様に郁子が双眸で促す。晶は頷いた。

「お、おおう。早いな」

 一樹が言葉を返すことはなかった。郁子は、また新たな言葉を紡ごうと口を開いた。しかし、喉元まで出かけたその言葉を発す事が出来ず、そのまま口を閉ざした。

 それっきり誰も言葉を発する事なく、黙食が催された。


「ごちそうさまでした」

 沈黙を破ったのは一樹であった。手を合わせ、空になった食器を流しに持っていく。

「俺、先帰る」

「え!もう帰っちゃうの!?」

 郁子の茶碗にはまだ半分ほど米が残っている。いつもならば、郁子が先に食事を終え、育ち盛りの一樹が2杯目の米を平らげた後に、2人揃って帰宅するのだが、今夜は先に帰りたいそうだ。そのわけは聞くまでもない。

「俺がいると空気が悪くなるみたいだからさ」

 一樹は太々しく言った。晶は気まずそうに味噌汁の入った器を必要以上に傾け、顔を隠した。

 (この2人に何があったの?)

郁子の頭はその事で一杯である。

「じゃ、お邪魔しました〜」

「ちょっ、一樹!」

 一樹は郁子に構わず、家へ帰って行った。

 ちなみに晶邸から郁子と一樹の住む家は5分もしない同じ通り道にある。その為、郁子も執拗に一樹を止める事はなかった。


 玄関の戸が閉まる音を聞いた途端、

「はぁぁぁ」

 と郁子は深いため息をついた。

「ちょっとあっくん何があったの?」

 今一度、問い詰める。晶は遠くを見据えながら言った。

「人には、いざという時、言えない事がある」

 郁子に何て伝えたら良いか、晶は未だ言葉の整理がついていないのだ。

「今、しみじみとその言葉が突き刺さるわ」

 晶は郁子に目配せ、首をかしげる。すると、郁子は小さな声で呟いた。

「一樹に、進路のこと聞けなかった」

 悔しげに眉をひそめる。晶は、自身が一樹に聞いた、と伝えようとしたが郁子が先に言葉を紡いだ。

「あっくんがいるから聞きやすいかなって思ったけど、いざとなったら聞けないものだね」

 郁子は晶が何か言いかけた事を察し、目配せる。しかし、晶は何でもないと口を閉ざし、話を続けるよう促した。

「高2の冬にね、一回だけ聞いたの。進路どうするの?って。そしたらあの子、就職しか考えてないって言ったの。大学とか、専門は?って聞いたら興味ないって」

 額に手をつき、悩ましげに俯く。

「あの子、私に気遣ってんのよ。小さい時から大人の顔色伺って」

 晶は頷いた。晶も一樹の何処か子供らしさの欠けた考え方に胸を痛める瞬間があった。例えば、誕生日の時でさえ、何が欲しいか聞いてみると、流行り物のゲームを要望することもなく、みんなで焼肉を食べに行きたい、と私欲を満たそうとする考えが欠けていた。確かにそれは素晴らしい事だ。しかし、晶や郁子は歯痒いのであった。

「本当に手のかからない子だった。今もだけど」

 晶も同感であった。家で預かる際も大人しく学校の宿題をし、いつの間にか、台所に立ち、食事の準備までする様になった。はたして、晶と一樹、どちらが世話をしているのか。晶は苦笑した。

「私、未だに悔しいのね」

 晶は今一度、郁子に目配せる。

「あの子、6年間野球頑張ってきたでしょ?」

 晶は頷いた。

 一樹は小学生の頃、少年野球チームに所属していた。高学年時にはピッチャーとして県大会に出場し、優勝まで導くほどの実力があった。

「私はあの子が楽しそうに野球をやってる姿が好きだったの。絶対に中学でもクラブチームに入れてあげようって、確かにあの時、費用の面で厳しかった。けど、その目標もあって、もっと仕事頑張ろうって思えたの」

 晶はその時のことを鮮明に記憶している。費用面は自分が出そうと提案したものの、郁子はそれだけは己のプライドが許さないと断った。

 晶は今だから思う。あの時、自分が掛けた情けは郁子の思いを汲み取っていなかった、エゴイストの典型であったと。

「なのにあの子は私に気遣って…」

 郁子の瞳から涙が溢れた。

「続けさせてあげたかった」

 中学に上がった一樹は郁子に気を遣い、クラブチームに入ることなく、中学の野球部に所属することもなく、家の事に専念した。

 郁子は乱暴に涙を拭った。

「あの時の二の舞は嫌なの!」

 心の底からの思いであった。

「母子家庭だからゲーム買ってあげられないとか大学、専門行かせられないとかお金のせいにしたくない!一樹には費用を気にして進路を決めて欲しくないの!」

 郁子の熱い眼差しが晶に向けられる。

「私から言っても強がりだと思われて余計に心配させちゃうの。だからあっくんからも言って」

 もう一度諭す価値はあるだろうか?一樹は郁子に似て我を貫き通す質だ。晶はなるべく前向きに、しかし、曖昧に頷いた。

 郁子は泣いてスッキリした、と笑った。その顔は先程まで泣いていた顔には見えない程に明るい。

「はい、次あっくんの番だよ」

「え?」

「言えなかったこと!私だけじゃ損した気分」

 晶はまさか自分に回ってくると思わなかった為、動揺する。

「あ、ああ…」

「今さら言わないとかないから」

 郁子は卓に両肘をつき、手に顎を預け、じっと晶を見つめる。その顔は一樹を彷彿ほうふつとさせ、晶は顔を苦くした。しかし、もう言うしかないようだ。

「実はな…」

 晶は一樹が家に来てから寝室での出来事まで嘘偽りなく、私情をも交えることなく、順を追って事実を説明した。

 話しを聞く間、郁子は大きく目を見開いたり、口を大きく開けたりと忙しなく表情を変えた。確かにそれほどの驚きがある出来事だ。


「さっきのはそう言うことなんだよ」

 晶は全てを打ち明けた。これから先、郁子が一樹を己から遠ざける事は無論、心している。そっと瞳を閉ざした。

「やだぁ」

 と郁子の驚愕の声が聞こえる。

「まぁ、俺も責任を感じているんだ。これから先、一樹と距離を置くよう言われて…」

「一樹、恋してるのね!」

「え」

 晶は目を開け、郁子を見る。

「ときめいているのね!」

 郁子は両手で口を覆い、瞳を輝かせていた。悔やんでいるかと思いきや、どちらかというと感動している。

「い、郁子?」

「息子の初恋なんて応援するに決まってるじゃない!」

 晶は開いた口が塞がらないといった調子で郁子を見た。

「あんた最低!なんで、真っ直ぐな想いに応えてあげないの!?」

 郁子の怒涛どとうが響く。

「俺、四十二だぞ?じじぃだぞ?そんな俺にお前の可愛い息子が恋してるんだぞ?」

「だから?てか、同い年の私はババァだって言うの?ふざけんな!」

 郁子はドンっと卓を叩いた。

「普通、止めるだろ」

「あっくん。時代遅れだよ。てか、己の作風を卑下してる様なものだよ」

 図星だ。晶は言い返すことができず、大人しくなった。すると、郁子がハッと何か閃いた様に手を挙げた。

「私、良いこと思いついちゃった!」

 嫌な予感がする。この先の言葉を聞きたく無いと器を片そうとした。しかし、郁子の手が晶の腕を掴み、それを止める。

「一樹が自分の事を第一に進路を考える!それを条件に交際と同棲認めるのってどう!?」

 かの天才発明家の様な誇らしげな顔をする郁子。晶は再び椅子に座り直す。

「まてまて、勝手に話を進めるな」

 なぁ郁子、と諭す様に言う。

「俺は邪道で生きてきた。それを引け目に感じている。一樹に同じ想いをさせたくない」

 反論しようとする郁子の前に手を広げ、静止させる。

「これは俺なりの愛情表現なんだよ」

 郁子は背もたれに深く腰掛けた。

「はぁ、意気地無しね」

 晶は静かに笑った。

「一樹にも言われたよ」

 郁子は晶に目配せ、俯いた。そして同じ様に笑う。

「やっぱり私と一樹って親子だね」

 その声は柔らかく温かなを浴びている。

「だって、私も昔あっくんに恋してたじゃん」

「ああ、そんな過去もあったな」

 2人は同じ光景が脳裏に過ぎっているようだった。同時に笑った。

「当時、学校内で高嶺の花と謳われた私をあっくんは振ったんだよ?どれほど私が夜な夜な枕を涙で濡らしたか…」

 すっかりとセピア色に褪せてしまった記憶に思いを馳せた。

「まぁ、今は全然あっくんなんて魅力感じないけどね」

 郁子は吐き捨てるように言った。

「こじらせオヤジになっちゃったんだからさ」

 晶は困ったように笑う。

「まぁ、でもお互い良い歳の取り方してんじゃない?」

「そうだな」

 晶と郁子はこうして気兼ねなく笑い合える関係に互いの存在を今一度嬉しく思った。

「じゃぁ、一樹のこと頼んだよ!」

「ああ」

 玄関口で郁子はパンプスに足を滑らせながらいう。履き終えると、振り返って晶に目配せる。

「それから一つだけ忠告」

 郁子は人差し指を立て、晶の目に向ける。晶は驚いたように顎を引いた。

「歳をとっても頑固なじじぃは若者に煙たがれる。もっと自分の気持ちに素直になりな!」

 そういってニッと歯に噛み「またね〜」と手を振って郁子は帰った。

 玄関に独り残された家主は、静けさに一つ息をつく。

「凝り固まり過ぎたじじぃはどうする」

 誰に答えを求めるわけでもなく、呟いた。ふっと自嘲する。

 今日こんにち、一つの物語が終わりを迎え、清々しい気持ちであった。しかし、まさか自分に新たな物語が降り掛かるとは。

 出会いと別れの季節、春。この歳で四季の悪戯に弄ばれる事に不思議と悪い気はしない。

「まだ、冷えるな」

 晶は両袖に手を忍ばせ、肩をすくめた。

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